社会のグランドデザインは

七十二年に東京高専を卒業して名門と言われていた日立精機に就職した。体で受けとめてきた詰め込み教育を吐き出すには機械を作る機械(Mother Machine)=工作機械しかないだろうと思ってのことだった。ところがというか当然のことと言うべきか、配属された技術研究所での設計実務は経験則がものをいう世界で、丸暗記のように覚えたことが活きることはなかった。数学と力学を偏重した高専の詰め込み教育には社会人として必須の人文系の基礎知識を醸成するような視点がなかった。社会にでて社会を理解する能力は中学生に毛が生えた程度しかないことに思い知らされた。
それでも社会に出ての一年は違う。翌年の春闘の頃には見えない方がよかった?ものがおぼろげにしても見えてきた。社会や市場がどう動いているのか、何が起きていて何が起ころうとしているのかなんか気にしている人は社内中さがしても何人もいなかった。それは会社としても従業員としても労組にしても同じで、目の前の課題や問題への対処にあけくれているだけだった。社会人になるということが会社人になることでしかないのか、その程度の人生しか求めえないのかと落ちつかなくなっていった。社会人とは会社人として会社という小さな池のなかで、どっちに向かって誰とどう泳ぐかに専念することに他ならない。そんなことをしていたら、意識するしないに拘わらず社会のありようや仕事や将来がどうあるべきなのかと考える思考の萌芽をみずから抑え込むことになる。

学園紛争の余韻を引きずったものの目には戦前の軍需産業から引き継いだ労務管理と表裏一体となった労組の体たらくが社会のありようを象徴しているようにみえた。翌年の春には、形ながらの春闘にかりだされて工場の正門前で労組の旗を振ったり、過激な文言をちりばめたチラシを配っていた。オイルショックから続く構造不況のなかで民間企業の労組が体力を失って官公労が労働運動を牽引するしかなくなっていた。官公労が国民を代表してという建前なのだろう、「国民春闘」という耳障りいいキャッチフレーズが巷を賑わせていた。春闘もメーデーも年中行事のひとつに堕してしまってはいたが、社会党の存在感はあったし共産党も支持基盤をしっかり押さえていた。ただその先がない。日本のおかれた状況から発した将来の社会のありようを提示した話は聞こえてこなかった。

戦後のどさくさが落ち着きだした一九五一(昭和二十六)年に荒川区町屋七丁目で生れて、小学二年生になる前に養父に引き取られて都下田無町に引っ越した。町屋がどんな町なのか?気になる方は下記をご覧ください。
Youtubeに出てくる忌避される施設は八丁目にあるが、そこから七百メートルほど北にいったところで生まれて育った。
「特殊すぎる下町 町屋駅周辺 荒川区・東京ディープタウン」
https://www.youtube.com/watch?v=TWbsK3xdlO4

高度成長のなかで育ったが、就職した七十二年(昭和四十七)年は前年のオイルショックのせいで工作機械業界は不景気の真っ只中だった。おかげで隔週休みだった土曜日が毎週になっていた。新入社員としては嬉しかったが、周囲には残業が減って手取りがとぼやいている人が多かった。あれこれ引かれてにしても、初月給の手取りはたった四万円だった。翌月五月の給料明細には驚いた。日立精機は日給月給で祝祭日は勤務給が出なかった。高専の三年生と四年生の冬休みには二週間ほどのアルバイトで五万円ほど稼いだことから薄給すぎないかと軽いショックを受けた。卒業を一年後に控えたとき、工作機械を教えてくれた恩師に就職の相談にいった。そこで「工作機械はよした方がいい。一番先に不景気になって一番後に景気が回復する業界で一生安月給だぞ。それでもいいんなら……」と言われたことを思い出した。張りのある仕事ができれば月給なんかどうでもいいと思ってはいたが、年とともに何をしようにも先立つものがないと動きようがないのを痛感しだした。英語をなんとかしなければと週二回通った晩の英会話学校の授業料がきつかったのを覚えている。
一九八二年八月に退職したが、五月の手取りは忘れもしない十二万三千円だった。勤続十年、田無から安孫子まで片道一時間半かけて、当時の大卒初任給の平均月給だった。ググってたら、「1982年の新卒(大卒)の初任給は、男子で12万7200円でした」と出てきた。

春闘で得たベースアップが翌年の春闘までには物価の高騰で打ち消されて、税金や社会保障費が高くなった分だけ貧しくなっていく繰り返しに流石に考えさせられた。長引く不景気のなかで新入社員が減って、従業員の平均年齢が上がっていく。平均年齢が上れば平均給与も上がる。上は詰まっているが下は薄い。おかげでいつまでたっても若手社員の一員のような、なんとも不思議な感覚でふわふわ気分が抜けない。それは給料も同じで毎年上りはするが物価の上りの方が大きい。

労務の手先のような社会党右派の労組にあきれて、否が応でもこの先どうするんだろうと考えだした。高度成長も終わって七十年代には、昔ながらの労働運動では次の社会など描きようがないと思いだした。毎年の恒例行事に化した春闘で繰り返えされる過激なスローガン、選挙の度に溢れ出る受け狙いの公約、左翼から流れてくる理念だけの主張。高度成長の歪みが大きくなって大都市と田舎の、持てる人と持てない人たちの経済格差や公害が問題となって、次の社会をどうするかという視点が求められていたが、保守も左翼も現状の延長線から半歩でるかどうかの口論に終始しているように見えた。聞こえてくるのはどう聴いても目の前の状況を把握したうえでの次の社会に向けた実現可能な話じゃなかった。

先の見えない生活のなかで経済学や思想や政治に関する本を一冊一冊と読む日が続いていた。手にした本には理念や理想にそこから生まれる社会観が理路整然と解説されていた。読み知った社会観と選挙戦で聞こえてくるしばし総花的などうにでも解釈できる公約や個々の社会問題を羅列したかのような話との乖離をどう説明したものかと考え込んだ。どこかに答えとはいかないにしてもヒントになる説明はないかと本を漁っていったが、半世紀以上の時がたった今も見つからない。どうしたものかと考えていて、末端の共産党員として署名集めに歩き回っていたころを思い出した。

毎週毎週上から方針?やら指導やらで資料が下りてきた。そのなかに創価学会との和解?があった。簡単な話で日本共産党の支持層は中下層の勤労者で創価学会の会員の多くも中下の社会層、どちらも共通した社会層の支持を基盤としている。であればいがみ合いを続けるより、共闘できるところは共闘したほうがいいじゃないかという話だった。言われてみればその通だが、それはイタリア共産党とカソリック教会との歴史的妥協を模したもので、自分たちが直面している社会から自分たちで導き出した運動方針じゃない。
改めて本から得た社会観に関する知識をなぞっていて気がついた。明治維新から今日にいたるまで日本で言われてきた社会観は端的にいってしまえば先進ヨーロッパで生まれた社会思想の土着化にすぎないんじゃないか?

イギリスの産業革命から市民革命、フランス革命からロシア革命、そして共産中国の成立、キューバ危機、ベトナム戦争……を鳥瞰してみれば、政治団体や知識人や学者や研究者が語ってきた、そして今も語り続けている社会観は先達が生み出したものの日本版でしかないような気がしてならない。日本の日本なんて言う気はさらさらないが、目の前の社会問題の云々から一歩踏み出して、明日の日本社会のグラウンドデザインはどこにあるんだろう?自分たちのありようから将来のありようを描きだすことなくして、どんな社会を築こうというのか?古希もすぎて未だにこの本質的な課題に対する答えにたどり着くプロセスが見えないでいる。
目の前の問題や課題にたいする施策(しばし反対の羅列)云々で将来の姿が描けるとは思わない。今日がなくして明日はないし、来年もない。でもその先のありようを思い描かずに今に終始していたら、将来がどうのという話にはならない。誰も理念や理想で食ってるわけじゃないが、理念や理想なしで将来あるべき姿を思い描けるわけがない。

他人にとってはどうでもいいことだろうが、こんなことを考えるに至った社会経験を書いておく。二十歳で就職して三十歳で辞めて、技術翻訳者を目指した。三年半翻訳で禄を食んでいたが、内職のような仕事にどうしたものかと考えていた。そこにアメリカの産業用制御機器メーカの日本支社から声がかかった。十三年間もいろいろやらせてもらったが、アメリカのだらしなさに愛想がつきてドイツのサーボシステム屋へ、そしてアメリカの画像処理システム屋へ転身したのち、京都のベンチャーに呼ばれて、アメリカ支社の立て直しに走り回った。転職を重ねるなかで左足を日本に、右足をアメリカとヨーロッパに伸ばして得難い経験を積んできたと思っている。そんなノンキャリアの思考の背景にはつぎのような経緯がある。
養父の影響もあって東京オリンピックではソ連の選手を応援していた。ソ連の政治体制こそ将来のありようだと信じ込んでいた。共産中国は内情を養父から聞いていたこともあって不信の念が強かった。肥大した悪性腫瘍のような「心付け」(裏金と賄賂)の文化のもとで、中国に公平平等な世界が成り立つとは思えなかった。キューバ革命には感動を越えたものがあった。仕事で知り合ったドイツ人の権威主義には辟易した。自分の都合が先のフランス人は仕事で当てにできない。イタリア人は興じる仲間としてはいいが、人生は楽しむものだという意識が強すぎてついていけない。一握りの優秀で勤勉なアメリカ人にはかなわないが、それは暗黒の夜空に瞬く星のようなもので、早々に出会える人たちじゃない。どこにも言えることだと思うが、どうしようもない状況のもとで一緒に苦労して、昔の言葉でいえば同じ釜の飯を食って始めてそれなりに分かってくるような気がしている。

ソ連にみた希望がかすんでいった時、中国にはならずにベルリンゲルが主導したユーロコミュニズムにひかれていった。ただ宗教を否定する家庭に育ったこともあって、カソリック教会の力には感動はしたものの乗り越えなければならないものとしか映らなかった。共産主義の限界をみてドイツから北欧にかけての福祉社会に目がいった。その横にはプラハの春もあったし、チトーの労働者の自主管理社会もあった。共産主義や社会主義ではどうにもならない。最後の希望だったユーゴスラビアの理念が崩壊した。なんでと思い続けてきた。Webで色々漁っていて偶然下記の資料を見つけた。探せば詳細なデータに基づいた資料がいくらでもでてくると思うが、この二点で気にしてきたことがすっきりした。
賀大学経済学部研究叢書第24号
「ユーゴ労働者自主管理の挑戦と崩壊」
藤村博之著
「社会主義国ューゴスラビアの実態」
徳永彰作著

どのような政治体制であれ、それを考え生み出し、責任をもって運営してゆく能力に社会的責任を自覚し自制できる人たちがつくり上げる文化のないところに、こうあるべきだという社会が生れ、持続することはないということなのか?というありきたりに結論しかないのかと思っている。教養のないものが半世紀以上考えてきて、この結論かと思うが、ここまでの能力しかないということなのだろう。

p.s.
<戦略まで描けなくても方向性は打ちだせる>
アメリカの画像処理システム屋の日本支社で新たな市場開拓と補完製品のOEM調達に走り回っていたことがある。入社して即マーケティングとして戦略を提示することが求められたが、今市場がどう動いて、これからどう動いていくのかと問われても考えがまとまらない。自分たちはなんなんだという必須の理解(自己定義)があいまいなままで戦略なんか立てようがない。呼んでくれた社長にはすまないが、曖昧なままこれだと戦略を提示できないでいた。
それでも市場や同業他社がこっちのほうに進んでいるはずだというぼんやりした景色は見えた。戦略は出せなくてもどっちに動くべきかという方向性は示せる。進むべき方向を間違えなければ、そっちに進みながら戦略を練れる。
そんな拙い経験からだが、今言えることは大きくなり続けているジニ係数を小さくする施策だと思っている。なんの裏付けもない素人の思いにすぎないこと、ご容赦ください。
個人にも法人にも累進課税を重くすれば、さまざまな社会問題の軽減につながる。儲けすぎれば税金で持っていかれるだけとなったら、気前よく払ってしまえという文化が醸成される。トヨタが史上最高益なんていっているが、それは外注や納入業者に、社員や季節臨時工にパートさん……に払う金をケチっているから実現できることで、言ってみればみんなの収入を抑え込むことで儲けているということに過ぎない。金持ちが金持ちでいられるのは、払わないからだ。もっと払えば、名古屋の栄も元気になって活気のある街が返ってくる。減税だ、支援金だ……なんて言ってないで。累進課税を強化したほうがいいと思っているが、とんでもない間違いをしてますかね?
厚生労働省は発表している日本のジニ係数の推移がある。
https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-08-09.html
2025/5/2