ネット同人誌でもあるまいし
ちきゅう座の会員にさせて頂いて数ヶ月、掲載された先輩諸氏の論稿を拝読していた。あれこれ読んでいるうちに、数年前には思いもしなかったことを考え始めた。もしかしたらオレの雑文でも書き直して整理すれば、掲載していただけるなんて夢のようなことがあるかもしれない。知らないものの強みからこぼれだした期待を胸にPCに保存してあった備忘録を読みかえした。どれも出来の悪い中学生の作文みたいなもので、文学的や形而上学的?な雰囲気など微塵もない、うるおいのない駄文だった。ときには政治的な内容をちりばめることがあるにしても、仕事で求められるのは端的で読み間違いの可能性を極力排除した、感情の類を抑制した文章だった。還暦過ぎまで手にとった本は仕事にせまられてのもので、文学書の類はほとんどない。年賀状もださない横着者で仕事以外で文章なんか書いたこともない。技術畑を歩いてきたこともあって、感情の機微にふれるような文章など目にすることもなかった。
このままではと慌てて、文章の書き方を解説した本を読み漁ったが、所詮つけ刃。ちきゅう座の諸先輩の目には稚拙すぎるものしか書けない。形だけにしても高尚な雰囲気をにおわせるような器用さは持ちあわせていない。能がないのに能があるように見せる術もない。なにをしようにも、できることしかできないと割り切るしかなかった。なんども推敲を重ねて、貯まっていたメモのような原稿をそれなりのかたちにして投稿した。なにもないものが恰好をつけてのことと大目にみてくださったのだろう、掲載していただけた。これでちきゅう座の末席にたどり着けたかの高揚感があった。
溜まっていたメモに手をいれて原稿に仕上げて投稿していたら、先輩から厳しい叱責をうけた。「走り書きのようなものをぽんぽん出すな。論考はしっかり書き込まなきゃダメだ……」ご指摘のとおりと反省しきりだったが、いくらもしないうちに、じゃあどうすればいいのか?論考とはなんなのか?学者や研究者でもない、半世紀以上も製造業で走り待ってきただけのものに先生方の投稿と似たようなレベルのものをと言われても、おいそれとできるわけがない。そんなことが出来るのは天賦の才能に恵まれた人だけじゃないのか?ちきゅう座に集まっている人たちは学者や研究者に天賦の才能?と穿った目で掲載された論考とやらを見ていって、なにを言ってやがる、この野郎という気になった。そもそもちきゅう座とはそのような人たちがそのような人たちを相手にしている場で、巷の普通の人たちはお呼びじゃないということなのか?ちきゅう座は学者や研究者が集う場であって、社会一般に開かれてるわけじゃないというのなら、投稿サイトとしてWebに掲載するな、と言い返したら除名されて終りだろう。
社会的視点も思想的……全てにおいて至らないのはわかってる。つけ刃にしてもそれなりに積み重ねていけば、少しづつにしても格好もついていくんじゃないかと期待しながら、今日まで続けている。
視点も論点も何もかもが誰もが知っている、気がついていることから一歩もでない。なにもないものがないものなりに見たこと聞いたことが何を意味しているのか考えてまとめたものを投稿してきた。
先輩に叱責されて二年ほどたったとき、尊敬している年配の方から一言お言葉を頂戴した。「投稿は読ませてもらってるよ。読みやすいから……」
目を通して頂いている。それだけで嬉しかった。でも「読みやすいから」にはちょっと考えてしまった。読みやすいのは、読みにくい文章を書く能力がないから、必然として起きていることでしかない。学術的、思想的にしっかりした高層建築のような文章などかけっこないし、書こうとも思わない。そんな文章は読むのにも疲れるし、疲れを補って余りある内容があるとはかぎらないじゃないか。高等なものは高尚であるというのは、頭のいい人が長年の研鑽の上につくり上げた挙句に、書くのも読むのも、すくなくとも巷のたちにとっては労多くして得るものの限れたものがほとんどじゃないのかって気がする。
高等教育が行き渡ってきたけど、大学に進学するのは半分程度。進学した半分の人たちだって、学者や研究者のしちめんどくさい論考なんか、読まなきゃならない、外せない理由でもなけりゃ手をださないだろう。学者や先生方が社会の大勢だと思ってるわけじゃないですよね?って訊きたくなる。
社会の大勢が気張らずに読めるものでなければ、大勢には受け入れらない。まさかちきゅう座はネット同人誌のような?仲間内の交流の場か情報発信の場というわけじゃないだろうと思うんだけど、どうなんだろう?
2025/5/11