言行不一致

そうありたいと念じてはいるが、事業展開にして開発計画にしても当初目論んだ通りに進んだことは今までなかったし、これからもまずないだろうと考えている。しかし、全く意味の価値のないチャレンジをしたことはないし、たとえ目的を完遂しえなかったとしても将来への大きな一歩を築いて来たと確信している。将来に向けた成長モデルがそう簡単に構築できる訳でもなし、困難なチャレンジをしてきているのだからしょうがないと言い訳半分で自分に言い聞かせ、残りの半分は苦楽を共にして下さった関係者に申し訳ない気持ちでいる。これからも、言を堕することなく行を高めて少しでも行を言に近づける努力を惜しまないつもりだ。
いい訳と取られるを恐れながら言わせて頂く。そもそも完璧な言行一致など、実社会ではありえない。全てが当初の計画通り行く、目論みが全てあたるなどということのはありえない。問題は言と行のギャップの大きさででしかない。人間誰しも話が大きくなったり小さくなったりする。また、多少の誇大/縮小解釈もあるのもしょうがない。ただ、真っ赤に嘘、あるいは、真っ赤な嘘になってしまう考え違いはどのような状況であれ許されない。
今まで、様々な局面でお会いしてきた経営陣、管理職の方々からは、言行一致の対極にあるとしか言いようのない状況においてすら、あたかも完璧な言行一致を実践してきていると主張され、極端な場合はその状況を自慢される方までいらした。なぜ真っ赤な嘘以外でしかありえないにもかかわらず言行一致の体裁の捏造を試みるのか?いくら言行一致の格好をつけようとしても、茶坊主ではない普通の人であれば、誰が見聞きしても、言ってきたことやってきたこと、言っていることとやっていることの間の乖離、ギャップが大きすぎて、言行一致どころか支離滅裂としかいいようがない状況にあることを分かっている。にもかかわらず、その状況に至った己の責任から自覚してか、せずにか目を逸らし、後付けの都合のいい詭弁を弄してまで言行一致の体裁をとろうとする。体裁をとるなかで自らの言と行のギャップが繕いがたいまでに大きいことを自覚している場合もあれば、不幸にして自覚していない場合もある。自覚していない、自覚する能力のないものは、はっきり言ってしまえば、馬鹿だ。この手の管理職では、しばし言っていることとやろうとしていることの間に整合性もなくというより、整合性がどうのということを考える能力そのものが欠如している。
上からの指示だから、顧客からの要求だから。。。でその都度のご都合と成り行きで進んでゆく。昨日があったように今日があり、今日があったように明日もある。まあ、その程度の能力の人材ででしかないということになる。彼らにとっては社会は変わらない、変わってもらっちゃ困るものででしかない。一方、自覚して、はっきり分かっていて、それでも詭弁を弄して取り繕う方はと言えば、これは卑近に言えば、嘘つきででしかない。上手いか下手かは別として詭弁を弄する能力はある。
こう考えてくると言行一致である外見をなしている経営陣、あるいは管理職は実は多くが馬鹿か嘘つきかもしれないということになりはしないか?そのような経営人、管理職の下で働く人達は、日々その馬鹿か嘘に順応し自らも(少なくとも行動形態は)小馬鹿か小嘘つきになるしかない。そうでもしなければ、言っていることとすることの乖離に振り回されることになり、素材としては優秀な人材でも機能し得ず、組織に埋没してしまう。自覚して上手く振り回される術を得た人材はギャップを詭弁でうまく埋めるテクニックを身につけ言行一致の虚構をさらに緻密なものにしてゆくことになる。
経営陣、あるいは管理職には心ならずも起きてしまった言と行の間のギャップを公にすると共に、そのギャップを生み出した自らの責任に言及し、ギャップを埋める努力すらも公にする公開性を求めたいのだが、求めすぎか?求めてもしょうがないものを求めるより、言行不一致を公に認めて、取り繕いの下手な方が信頼をおける経営陣と考えることにしている。