製造業のなかの第三次産業

“物造りの日本”といった類のキャッチフレーズのようなものをよく耳にする。“ものづくり”を表題に掲げたメルマガまである。物造り、製造業の重要性は重々承知しているつもりだが、聞く度に、どうも腑に落ちない。“研究開発の日本”ならまだ納得も行くし、将来も明るく感じるのだが。
日本、米国をはじめとする先進国の経済の主体が製造業(第二次産業)からサービス産業(第三次産業)に移行して久しいと理解している。製造業の企業内の営業、サービスなどの第三次産業業務に従事している人達、その人達の生み出す価値は第二次産業としてカウントされているとしてもだ。
しばし、先端技術を実用化することで製品化され大量生産されている製品について、この製造技術は日本にしかないので、欧米では当分製造できない。技術立国日本が誇る技術と製品だという話を耳する。ところが、数年も経たないうちに欧米企業、ときには日本企業がアジア諸国で廉価製品の製造を開始したりするのを目のあたりにして、かつての主張は一体なんだったんだろうと思ことがある。たしかに製造技術を確立したのも、製品化したのも日本の企業の功績だが、製造の場としては製造コストを下げるためにアジア諸国に量産体制を移動する。これは、経済合理性からの選択により、第二次産業の製造業部分がアジア諸国に移り、第三次産業部分が日本に残っていることに他ならない。
第二次産業は製造業でエンジニアリングだ、エンジニアリングの基礎はサイエンスにある。 ここまでは分かる。では、第二次産業のなかで日本に残った、日本で付加価値を生んでいるの第三次産業部分の基礎にサイエンスはないのか?日本に残った第三次産業部分の主体はマーケティング、物流、営業、それらの関連業務だ。確立されたエンジニアリングの世界では開発、設計、製造に関して通常明確な数学式で表せる。対象が比較的平易だし、破壊試験すら可能だ。ところが、第三次産業では対象に社会の要素が大きくからんでくる複雑系なため、確立されたエンジニアリングのように簡便に計算に乗らないケースが多い。破壊試験どころか簡単な実験すらままならない。
先進国の第二次産業の製造業部分がアジアなどのコスト競争力のある国々に移行した結果、第二次産業のなかで先進国に残った第三次産業部分の優劣が、先進国間の第二次産業の雌雄を決することになると考えている。長い間、日本の経済発展の担ってきた製造業が技術屋主導/主体から大きく変わらなければならないときになっている。時代は、製造業の技術屋の能力以上にホワイトカラーワーカの能力を問うている。はたして、日本の製造業のホワイトカラーにその自覚が、時代を背負うプロとしての能力があるのか?
ものづくりの日本を強調することが、この第二次産業内の戦場の移動に気が付くのを妨げるようなことにならなければいいのだが。なぜ、米国でビジネススクールがこれほどもてはやされるのか?なぜ、製造業においてマーケティング部隊がこれほど力をもっているのか?自社の体制と比較してみるのも無駄ではないと思うが。