人のふり見て…

世界的に知られたヨーロッパの名門企業で規定というのか決まり事に非常に神経質な会社があった。統一した企業イメージというのかCI(Corporate Identity)にうるさい会社で、カタログやリーフレットのスタイルには事細かな規定があった。内容の配置から写真や図の使い方、文字と余白の比率、線の色、線の太さ、線と線の距離、数えだしたらきりがないほど決められていた。
ところが、日本語が分からないので内容に対する言及は一切ない。というより言及しようがないと言った方があたってるだろう。そのため、日本で何をしても見てくれが規定に適合しているかどうかが、ただ唯一の判断基準だった。国の文化かのか企業文化なの分らないが、何でも規則や規定を作って、それに適合してるかどうかを常にチェックしているのだろうと思っていた。
展示会となると社長以下、何人もの重要人物が来日する。そのなかにMarketing communicationsの責任者がいて、まるで見てくれのチェックがその存在理由のような立派すぎる人がいた。当初は、規定や規則に細かい、ある意味お堅いだけの小官吏なのだろうと思っていた。
ところが、展示会で日本支社のほぼ全員がバタバタ状態のところに、やれ、歌舞伎を見たいので予約できないかとか、相撲を観戦したいのだが、チケットは手に入らないかなどなど、規定も規則もへったくれもない。極め付けは、ヨーロッパの本社のある従業員の奥様が何でもモダンアートの芸術家だそうで、その人の個展が京都の美術館で開催される。そこで、その個展への集客を日本でできないかと。大阪で顧客向けのセミナーを予定したときと時期が重なったことから、ゴタゴタが広がった。ヨーロッパの本社が田舎町にあるせいなのか、それともその国では最大企業という立場でエゴが通ってきたせいなか分からないが、その美術館でセミナーを同時開催できないかと言ってきた。
地方の公民館に毛の生えたような美術館じゃない。相手は、京都にある国立美術館だ。可能かどうか問い合わせることすらはばかれる。さらに、日本に指示してくるのが、アジアの本社経由というのが、その国の、あるいはその企業のズルさの一つだった。アジアの本社の経営陣はインド人で固められている。優秀な人達なのだろう。歩く電卓とで呼びたいほど、計算は速かった。ただ、彼らの存在価値をヨーロッパの本社がどう見ているかを想像すると、もう、21世紀だ、いい加減にしろと言いたくなるのを抑えるのに苦労する。とんでもない勘違いをしているかもしれないと、何度も反芻して起きたことをなぞってみたが、こうとでも考えなければ起きたことを説明し得ない。
要は自らの手を汚すことなく、ムガール帝国から大英帝国の植民地時代の長きに渡って侵略王朝の手先として自国民を支配し続けた有能な官吏を今でも使って、間接支配をしているのではないかと勘ぐりたくなる。自らが立案、作成した規則も規定も自らを規定もしないし、束縛もしない。それはあくまでの被支配者階級のためにある。目的は植民地支配の現代版に近いんじゃないかとすら思えることが日々起きる。
人種差別に近い発言になりかねないので申し訳ないが、起きた現象を説明するには、こうとでも考えないと説明しきれなかった。似たようことを日本人もアジアやあちこちの国でしているんじゃないかと心配になる。「人のふり見て我がふり直せ」と言われてきたが、この言い草が死語になることはないんだろうな。