報告書(改版1)

報告書の内容を見ると、しばしばコンピュータシステム上のデータを見れば一目瞭然の内容を報告書の形に体裁を整えているに過ぎないものがある。 報告書の体裁のために、言ってしまえば数行で足りることを、ああでもない、こうでもないと水増ししているものすらある。そのようなものを生み出したのは報告書を受け取る側であって、提出する側ではない。
報告書は報告書であって提案書ではないので、課せられた任務遂行の情況、結果について事実を忠実に記載するのが報告書の本来の目的であることは分かる。結果に対する反省も必要だが、過ぎたことを事実とはいえ、いくら書いても何の役に立つというのか?報告書に結果に対する反省とそれに基づいてこれから何の目的のために何をどうしてゆく考えなのか、提案が含まれていなければ、ただのささいな史実程度の価値しかない。
これは提案書に書かれるべき内容だという反論があることを承知で、あえて主張したい。繰返しになるが過ぎたことを確認しあうだけで、次に何をするのか、すべきなのがなければ、結果は分かった、で、どうするがない。このような報告書が一般化する元凶となっているのが、実は報告書を書く人間の姿勢、能力である以上に報告書を受取る側の当事者意識の低さも含めた根本的な能力不足だろうと考えている。
報告書は、報告書を受取る側(上司)が報告書を提出する側(部下)の任務遂行情況を評価するためのものと考えている無能な管理職が多すぎる。間違いがここから始まる。報告書には担当者レベルでは組織上の限られた権限ゆえ対処しきれない内容が含まれている。報告書に受取る側(上司)が対処しなければならない内容を明記されているかいないかは問題ではない。明記されていなくても、上司は情況を理解し、適切な処理をする責務がある。理解しえない、あるいは処理をしようとしないのであれば職責を問われる。
報告書を受取った上司が上司の責任で対処しなければ、あるいは、少なくとも対処する意思を報告書を提出した部下に見せない限り、部下は報告のための報告を報告書に記載するだけに留め、あえて問題を指摘し、無能な上司のひんしゅくをかいかねない報告をしなくなる。ましてや、上司の無能を暗に言及することになりかねない提案などというものが出てくるわけがない。出さなきゃならないからということだけで、大して意味のない報告書を部下にせっせと書かせ、それを形ながらに整理して上長に報告する。これで仕事をしていると勘違いしている管理職が多いすぎなか?
もっとも、部下からまともな提案を散りばめた報告書をもらって、それを噛み砕いて分かり易く上申したところで、理解しえない、黙殺する、あるいは反感を持つ以外には能のない上長の下にいる中間管理職としてはどうしようもないじゃないかと反論もあるだろう。この反論が、しょうがないじゃないかと認めるところから民僚体制ができあがって行く。
その民僚体制の一翼を積極的に担うことで、たとえ今までの世間で言うところの出世をしたとして、はたして、当人になにが残るというのかちょっと考えてみることをお勧めする。明示的にか暗示的にかは別としても問題を指摘されて、それを気が付かない振りをするよなことで事なき日常を送るようなことを繰返していたら、お追従か、迎合か、その程度のテクニック以外にはなんの能力もない人間に、結果として組織にしがみ付く以外に存在しようのない人間になってしまう。いくら逃げ手を工夫しても長い人生どこかで捕まってしまう。自ら進んでも問題を摘出して、その解決を背負って出ることで実力が養われる。マネージャなら、いいことは手短に記述し、問題点や解決しなければならない点とそれらを解決するための案を−提案を主体とした報告書にするように部下に指示しなければならない。
もっとも多くの上司は部下からいい話しか聞きたくない、上長にはいい話しかしたくないと思っているだろう。組織をあげていい話に終始したい、これをプラス思考と呼んで自社の誇れる文化などといっているのを聞くと、呆れるやら寂しいやらなんともいいようがない。
問題があるから、その問題を解決、改善してゆくから自らの存在があると−本来のプラス“志向”に視点がゆかない。問題がなければいいが、あることに気が付かないだけだろう。その問題、気がついても指摘することをネガティブ思考などといって抑えていたらどうなるか。いい話にしかない、悪い話やその悪い話を解決して行く視点のない報告書はもらう価値もない。もしその視点のある報告書が上がってきたら、提出する側が受取る側を評価していると思った方がいい。 報告書の話しに限ったことではないが、問われているのは問題解決能力ではなく、問題発見能力。これをシステム化するのが本来の報告書だろう。
2015/1/25