翻訳屋に(10)―英語の勉強1

翻訳屋に入社したはいいが、出社しても仕事がない。何もしないでゆっくりしていられるような性質じゃない。書棚を見ては参考になる本と持ってきて、机にすわって読んではいいが、間が持たない。時間から時間への仕事でもないのだから、仕事がなければ事務所にいなければならない理由はない。でも、それは一人前の翻訳者ができることで、新米はいつどんな声がかかるかもしれないと期待して待機しているしかない。たまに数行の半端仕事をもらって、わけもわからずに一所懸命翻訳してが続いていた。

こんなことやっていて翻訳者になれるものかと心配したが、数ヶ月もしないうちに数百ページの書類一冊の翻訳を任せてもらえるようになった。やっとまとまった仕事をさせてもらえるようになったのはいいが、こんどはいくらやっても仕事が途切れない。やればやるだけ仕事が流れてくる。ろくにやることもないのんびりしたため池から、急に忙しさの滝にでも落ちたような感じだった。

このまま実戦で経験を積んでゆけば翻訳屋にはなれそうな気になっていってきたが、バタバタやっていればどうにかなると思ってしまうのが怖かった。仕事で経験できる、勉強できることから得られる知識や能力だけでは、将来何をしてゆくにも十分でないことを工作機械メーカに十年いて痛感していた。工作機械メーカなら一従業員ですまないこともないが、そこは翻訳屋。最後は一人の自由業、頼れるのは自分の知識と能力しかない。
社会人になって、なにが変わったかといえば、この意識だったと思う。翻訳屋に転職して、その意識が鮮明になった。超克などと大それたことではないが、自分の時間で将来にむけた何かをしていないと落ち着かない。

工作機械メーカにいたときは、英語の勉強といっても、何をなんのためにという目的もなく、ほかにやれることがないから、英語でも勉強しておこうかという程度だった。それが転職したとたんに、何を何のためにという目的がはっきりした。人生のなかでもっとも大きな転換点だったと思う。趣味や教養でも海外旅行やお遊びの英語でもない、プロとしてメシを食ってゆくための勉強だった。

ただ何を何のためにまではいいが、どうやってが分からなかった。工作機械メーカにいたときは、相談できる人がいなかったが、そこは翻訳会社、技術的なことを聞ける人はいないが、英語の勉強ということでは、誰もがそれなりにしても考えを持っている。誰もいないのも困るが、誰もがというのも困りもので、誰に訊けばいいのかが悩ましい。誰がいいかは訊いてみなければわからない。いきおい訊きやすさや親切そうに見えるからということで、訊いてしまうのだが、訊く側の能力や気持ちに合わせてアドバイスをできる人はいるようでいない。アドバイスはありがたいが、個人の特異な経験とそこから生まれた偏った考えを押しつけがましくいってくるのがいる。

訊いてしまって、失敗したと気がついたときはもう遅い。仕事の上では先輩。一般教養としての英語のレベルも明らかに上、何を言われても反論しにくい。極端にいえば、新米を子分にでもしたいのかといいたくなるのが二人いた。
一人はコンピュータのマニュアル専門の翻訳者で、クライアントが規定した文体と用語に従って、機械的に日本語から英語に書き直す仕事をしている人だった。その仕事を翻訳と呼ぶには抵抗があるが、安い単価でもページ数で稼いで、売り上げでみればトップ翻訳者だった。「変速」が目に入れば、何も考えずに「gear shift」とタイプする、まるでパブロフの条件反射のような仕事ぶりで、タイプライターの付属品のような人だった。
入社したてのころは、そんなことに気がつくもわけもなく、まるで機関銃のようなタイプライターの音に、こんなすごい翻訳者がいるのだと感動したものだった。
できる翻訳者として、度を過ぎた自信もあってか、技術翻訳という名のついた月刊誌に連載記事まで書いて恥をさらしていた。月刊誌で知遇を得たのだろう、某有名私立大学の教授を高く評価していた。薦められるままに月刊誌を何冊か買って、教授が書いた技術翻訳の本を買ってきたが、ちょっと技術的な文章を拾ってきて、定型化した文法の紹介をしているだけの本だった。タイプライターの付属品といい大学の先生といい、技術翻訳の世界にはこの類しかいないのか暗然とした。あれから三十余年、東大出版会が発行している月刊誌に科学用語の英訳の記事があった。参考にはなるが、東大でこの程度。知らないだけであってほしいが、今でも技術翻訳と銘打った本の類も先生方も使えないと思っている。

もう一人は付属品よりたちが悪かった。先生が教鞭をとっている某有名私立大学の出なのだが、英文科で手に職というものがない。あとになってみれば、技術知識には興味もない、ただの英語使いにすぎなかった。女性蔑視などさらさらないが、翻訳の仕事でお会いした女性の多くが、なにもそこまで肩肘張って生きることもないだろうに、と思う人たちだった。
「あんたなにやってんの」が口癖なのか、話に始まりに枕詞のようについていた。「英語の勉強をしたいのなら、毎週土曜日にうちで何人来て勉強会開いてからおいでと」と言われて、断りきれない。まあ、どんなものなのか興味半分、怖いもの見たさ半分で出かけて驚いた。

生徒と呼ぶのか、下に見られている人が二人いた。英語を勉強したいと思っている人たち向けの月刊誌をもってきて、先生よろしく、本人は流暢なつもりで読んでは、日本語に訳しての二時間ほどの授業で、確か三千円。こんな授業を受けていたら、それこそ英語の勉強にアレルギーまで起こしかねない。行きたくないのに、小遣い稼ぎもあるのか、やめられない。いい加減にどうしたものかと思っていたら、先生がどこか別の翻訳屋に鞍替えした。

英語に限らず、勉強というものは、この電車(学校や教科書)に乗ってしまえば、目的地に着くという類のものではないことに気がついた。自分であれこれ試しては、今はどの類のことをどのように勉強してゆけばいいのか、試行錯誤を繰り返しながら、自分のやり方を工夫してゆくものだろう。その工夫の過程で学ぶことも多い。三十過ぎて、こんな当たり前のことに気がついた。
2016/12/18