翻訳屋に(18)―Classless teachers

いくらしっかりした学校で、まじめな先生でも、急に具合がということもあれば、はずせない事情でお休みのことがある。三ヶ月の学期のうちに一度か二度なのだが、担任の授業には飽きているから、いい気分転換になることがある。ここで「なる」と言いきれないところが、ちょっとさみしい。先生に何を求めてると言わるだろうが、代理の先生しだいでは、いつも以上に退屈というのか馬鹿馬鹿しい一時間を過ごすことになる。

担任がしっかりカリキュラムに沿って教科書を使って授業を進めているところに、代理ででてきて勝手に教科書を進めるわけにもいかない。教科書というバイブルのような沿うものがないから、何にも拠らずに、先生の「生」の能力で一時間間を持たせなければならない。極端にいえば適当に時間をつぶせばいいだけで、特別なことはなにもない。なにもないのに、まるで袈裟を脱いだら坊主が坊主でなくなってしまうのと似たようなことが起こる。なんでもそうだが、沿うものがなくなったとたんに、何もないようにしか見えなくなってしまう人がいる。

英会話教室に集まっているだけの日本人に、ただ何か言えといったところで、よほどのことでもなければ、誰も口を開かない。やさしい先生はこの日本人の特性が理解できない。先生からみんなの関心を引くような話題を提供しなければ、誰も何も言い出さない。そこは大勢迎合の日本人、たとえ関心のある話題だったにしても、周囲から浮いてしまいかねないのを気にして、最初に口を開くのにはちょっとした勇気がいる。

それでも、なかにはその日本人の奥ゆかしい(?)文化の影響から遠い人もいて、話し出す人がいる。話し出すのはいいが、ほとんどいつもといっていいほど、でてきた話題にうんざりする。うんざりするのを通り越して、これだけはよしてくれというのが皇室の話題だった。あるとき三十過ぎの女性が、皇室をもちだして、ロイヤルファミリーが云々としゃべりだした。おおかた女性週刊誌の記事かなにかからひっぱってきた話でしかないのを、女性の先生がうんうん言いながら聞くそぶりをするものだから、話が止まらない。
フツーの知能レベルがあれば、注意してみるまでもなく、そんな話に興味がないのがわかる。遠まわしにでも興味がないからと、違う話題にすりかえる機転が利かない。それどころか、大根役者でももうちょっと気が利いた演技ができると思うのだが、これ以上はないという相槌をうつ。生徒に悪い印象を与えないという心遣いはありがたいが、そんな話は誰も聞きゃしない。東銀の連中も含めて男連中は、最初あのバカがとあきれ返っていた。そんな話、何分もしないうちに物理的なただの雑音になる。

ここで女性連中のしたたかさというのか老獪さとでも言ったほうがいいのか、あきれる光景が生まれる。どうみても真剣に話を聞いちゃいない。それでも表面的には話に心底納得して聞いているような相槌を打つ。一人が、その相槌、やりすぎじゃないというのを打つと、もう一人がそれに輪をかけた相槌をうつ。相槌までならまだしも、自分からも英国の王室の話をもちだして、皇室の話をもちあげる。いってみれば皇室と王室を借りた女同士の見えの突っ張りあいのような話になっていく。

あきれたことに、ロイヤルファミリーが世界平和に貢献してるだの、皇室は日本人にとって精神的なよりどころになっているだのと持論を得々としゃべり続ける。アメリカもドイツもフランスもイタリアも……そんなものがないから困ったという話は聞いたこともないし、第一次大戦も第二次大戦もそんなものが平和に貢献したのか。何をみて言ってる、と言いたくなるが、そんなことを言ったところで何がわかる相手でもない。ただただうるさい。男の視点と叱られるかもしれないが、パチンコ屋の騒音の方がまだいい。騒音なら、なんの意味もないから気に障ることもない。

なかには、こういう具にもつかない話題にならないように自分を前面に押し出す先生もいる。いつも先生たちの控え室にいて、誰かが休んだときだけ声がかかるClassless teacherだと自己紹介した。暇だったら立ち寄ってくれ、いつでもWelcomeだ。Classless、どの社会階層にも属さないとか、階級のないという意味なのだが、口ぶりからベトナム反戦運動でもしていたとしか思えない。先生と生徒というより、知り合いの関係に近い。

そんな先生の一人が、話題として「部落問題」を持ち出した。ちょっと前に部落問題のデモを見たんだが、日本にそんな差別があることを知らなかった。気になって本を読んでみたんだが、差別の理由がよくわからない。誰か説明してくれる人はいないか?そんな重い話題をポンとだされて、概要だけにしても話すだけの知識を持ち合わせたのもいなければ、そこまでのことを英語でとなると苦しい。そもそも日本語ででも部落問題の実態を知っている人など、その類の集まりでもなければいやしない。

ちょっとした沈黙があったが、東銀の一人が知っている限りと前置きしながら話し始めた。盛り上がるというほどではなかったが、数人の熱のこもった話しになった。いつもやってるパターンプラクティスや週末どうすごしたかという気の抜けたビールのような話じゃ話という話にはならないが、こういう話なら、みんな何かを考えながら話す。考えない人は話せない、というより話すことがないのだから、話せない。当たり前のことでしかない。英会話学校にゆくと、話したくもないことを話すことを要求されて、話す気になることは、よほどのことでもなければ話題にならない。

関心がないことや知りもしないこと、考えたこともないことをかたちながらに話すことを求める授業では何も身につかない。言葉は言葉としてあるのではなく、考えて話すための道具なのだから。ふつうに考えればこの程度のこと、気がつかないはずはないと思うのだが、英会話学校になると、そのふつうのことが分からなくなるらしい。

英語の教科書には、日本のものであれアメリカのものであれ、残念ながら英語で将来仕事をしなければ、したいと思っている日本の二十代三十代の社会人が興味を持てる内容がない。英語教育に携わってきた人たちが経験できる社会体験のなかで作った教科書、どうしたところで、学校という特殊な社会かその延長線までしか扱えない。高校生ぐらいならそれでもいいが、社会人にそれを押し付けるのは教育する側の知識と能力のなさの証明に見える。
英語を学びたいと思ったら、できるだけ早く教科書のレベルを抜けて、仕事や私生活で必要とする領域の本にまでいってしまった方がいい。教科書でも先生でも学校英語にとどまっていれば英会話学校で終わる。当たり前の話だろう。社会人として、沿うものが英会話学校?ありえない。ましてその沿うものがなかったら、自分がなくなるような知識レベルに留まっていたら、下手な相槌しかできない人で終わる。
2017/2/12