転職のすすめ―限界効用逓減の法則(改版1)

「限界効用逓減の法則」と聞くと経済学の話で、ついそれ以外の領域には関係ないと思ってしまう。専門用語が思考を特定の領域に誘導してしまうからだろうが、ちょっと見渡せば、この法則、誰もが日常生活で日々経験している。当然の話しで、経済学とはなんなのかと一歩後ろに下がってみれば、人々の日常の生活、その集合として社会があって、その社会を経済という視点で分析して説明する学問なのだから、日々経験していて当たり前といえば当たり前、なにもおかしなことではない。

あらためて見れば、多少のズレがあったにしても、日常生活のなかで、その法則が言っていることがいくらでもある。正月のおせち料理に疲れるとカレーが恋しくなる。最初の一枚、二枚目もおいしかった、でも三枚四枚と食べると、いくらピザが好きでも、ピザは当分いいや思いだす。同じものを食べ続けると、食べるための費用は同じなのに、得られる満足感がどんどん減ってゆく。
試験の点数をどう稼ぐかというのにも似たようなことが言える。あと十点とれば満点という科目でその十点をとるのは、五十点しかない科目でプラス十点稼ぐのとでは、必要ながんばりに大きな違いがある。

何をしても、ひとつのことをやり続けると、ちょっとした弊害というのか、いいなと思っていたことが、たいしてよくないというのか、もういいやという気になる。気になるぐらいならまだしも、好きだったことが嫌いになって、「過ぎたるは及ばざるが如し」を実感する。
なかにはひとつのことを一生かけて追求していくことに無常の喜びを感じる人もいるだろうが、少数派だろう。

日常生活で、この類の「もういいや」という気持ちになったとき、何か道徳的に後ろめたい気持ちになることはないのに、仕事で「もういいや」というところまでいってしまった、あるいはその先の「もうやってられない」になったとき、多くの人たちはどうするか。
十人中九人、あるいはもっと多くの人たちが、「やってられない」のを我慢して、仕事を続けるだろう。飽きてしまったという以上に、その仕事を続けていったところで、将来の展望が開ける可能性もないのに、ほとんどの人たちが転職をためらう。

転職すれば、たとえ今までの経験を生かせるのが分かっていても、今まで通りというわけにはいかない。知らないこと、初めてのことに遭遇して戸惑いもあれば精神的なプレッシャーもある。転職した方がしなかったときより、よくなるという期待、それも合理的に考えて間違いないと思えても心配になる。
一つの会社のなかの人事異動に乗って、あれこれやっていった方がリスクも少ない。でも同じ会社のなかでの違う仕事と、違う会社の仕事では体験できることに大きな違いがある。転職によるリスクと転職によって得られるであろう、同じ会社にいては得られない、さまざまな経験と知見の間にトレードオフがある。

傭兵家業のようなことになって、二年から四年ほどで転職してきた拙い体験からなのだが、どんな会社のどんな仕事でも三年もやれば大まかには分かってしまって、多くのことが繰り返しなる。そこからが本当の仕事だとは思うのだが、同じ(ようなな)ことを五年十年と続ければそれなりに新しい経験もできるが、転職して経験する新しいものとは質も違えば量も違う。経験することではじめて文化や習慣の違いに気づくことも多い。

かなり分かってからも、飽きてしまったことを続けてゆけば、もっと深くもっと詳細に知りえる。ここで、知りえることをわかりやすく点数で表してみる。三年、五年で五十点になったものを、十年かけて六十点に、また十年かけて七十点にしてゆくことの大事さは分かる。ただ突き詰めてゆけばゆくほど、「限界効用逓減の法則」が利きだして、必要とする労力にわりに積み上げられる点数が減ってくる。そのうえ、もし最後の一点まで突き詰め得たとしても、突き詰められるのはその特定領域だけでしかない。
特定領域で突き詰めてゆくのをやめて、もっと広範なさまざまな領域で、こっちで三年かけて四十点、あっちで二年で三十点、こっちでも五年かけて六十点という選択肢、得られる総計の点数でみれば、決して悪い選択肢とは思わない。

悪くないどころか、「限界効用逓減の法則」とは違う効能さえ期待できる。壁にぶちあたって、これ以上続けても向上を期待できなくなってしまって転職したら、違う環境で違う視点から得た知識が、どうしても乗り越えられなかった壁を雲散霧消してしまうことがある。
いくら見ようとしても見えなかった山の反対側の景色が、転職して山の反対側に廻ってしまえば、見るも見ないも今度はその景色しか見えない。たとえて言うなら、山の手前は高温多湿で山の向こうは乾燥した大地。どっちも一方しか知らない人にはそれがすべてだが、転職して両方知っているものにはどっちも常識。そうなると、どっちの常識をどう使ってどっちの常識の相手に戦をしかけるのかという算段までが特別なことではなくなる。

生来のだらしなさ、突き詰めて巷のちゃちな人間国宝もどきを目指そうなど、とてもじゃないが性に合わない。性に合わないのを、あえて正当化しての話だが、あちこち見てまわった方が、社会人としての見識も広いし、そこから良識も多少なりとも偏りの少ないすっきりしたものになり得る。傭兵家業の「限界効用逓減の法則」、たまには考えてみる価値はあると思うのだが、いかがだろう。
2017/3/12