翻訳屋に(21)―この英語分かりません

雇ってもらった翻訳会社では、翻訳の質と生産性を考えて和文英訳と英文和訳に分かれていた。特定の領域に明るい翻訳者には、できるだけその領域か周辺の仕事を任せたほうが生産性もいいし、品質を心配することもない。似たようなことが、どっちの言語に翻訳するかについても言える。翻訳者は個人で用語や用例を蓄積して自分の辞書を作り上げている。日本語に訳すのと英語に訳すのでは辞書が違う。英(和)訳専門の翻訳者は英(和)訳専門で、逆の言葉への翻訳を依頼されても困る。翻訳できないわけではないが、辞書も資料もないから、戸惑いも大きいし生産性が下がる。

三年半翻訳で禄を食んだが、英文和訳は何か特殊な事情でもなければ、頼まれなかった。和文英訳は英語でどうのという前に、わけの分からない日本語との格闘になる。何を言わんとしているのか分からない日本語で手を焼いて、英語なら文法がしっかりしていから、日本語ほど荒れた文章はないだろう、とうらやましく思ったことがある。
あるとき、これは英文和訳なんだけど、適任者はあんたしかいないだろうと言いながら、営業マンが書類をもってきた。言われるとおりで、一見昼寝していてもできるものだった。製品は卓上旋盤。機械部品加工工場で使用する工作機械の技術屋を目指したものには、おもちゃにしかみえない。そんな機械にCNC(工作機械専用の制御装置)まで搭載して、なんなんだこの工作機械的玩具は、というのが第一印象だった。バット一振りホームラン間違いなしの棒球(ぼうだま)がど真ん中に入ってきたような感じだった。

パソコンが普及する前だったから、英訳はタイプライターで打っていたが、和訳となるとそれこそ鉛筆なめなめになる。鉛筆と消しゴムの作業は疲れる。ただ誰がどう考えても適任だし、おもちゃのような機械に制御、何があっても分からないなんてもことはない。ちょろい仕事、安請けした。
いざ、マニュアルを読み始めてあわてた。数行読んだが何をいっているのかまったく見当がつかない。でてくる単語は見慣れたものしかないが、工作機械では使わない単語が目に付く。文法もあっていて文章にはなっている。でも書いてあることの意味が分からない。もうちょっと先に読み進めば分かってくるかもと思って読んでいったが、まったく分からない。何度も読み返して、添付の図面を見ては読み返して、かなりの想像をはたらかせても、こんなことをいっているのだろうまでにしかならない。とてもじゃないが、そんな文章を翻訳したら、どこまでまともに翻訳できているのか保障できない。

マニュアルの裏ページを見たら、機械のメーカはオーストリアだった。オリジナルのドイツ語のマニュアルを技術知識のない人が用語を調べることもなく、字面で英語に翻訳したとしか思えない。仕事を持ってきた営業マンに一言いって、クライアントに状況を説明した。幸いクライアントの輸入商社の事務所まで地下鉄で三十分もあればいける。事務所に行けば、その機械を見れるし、オリジナルのドイツ語のマニュアルも貸してもらえる。
機械を目の前にして、おいおい、こんなおもちゃのような機械で手間かけさせるんじゃないよ、といいたくなった。半日もあれば、全部分解して、組み立てて、細かな調整までしてもお釣りがくる。クライアントに頼んで、制御に関係する部分を分解して、どういう信号を取ってきているのか確認して事務所にかえった。

ドイツ語の辞書を引きながら、何を言わんとしているのかを一つひとつ確認にして、日本で業界標準となっている用語をつかえる範囲はつかってマニュアルを書き上げた。読者は機械加工のプロではなく、日曜工作のアマチュアだろう。分かりにくい専門用語や言い回しを避けて平易な日本語に心がけた。こうなると、もうそれは翻訳という作業ではなく、マニュアルの書き起こしになる。

工作機械では、工場で何を気にすることもなく原点復帰という言葉が使われる。英語ではそれがReference point returnなのか、Zero returnなのかHomingなのか、どれも間違いでないこともあれば間違いのこともある。どのような作業をしようとしているかでどの言葉を使うかが決まる。なかには一般的な用語を意識的にさけて、わざわざ違う用語を使う面倒なメーカもある。いずれにしても何をしようとしているのか、作業の目的を理解しないと、適切な用語を使えない。
翻訳の際に英語でも日本語でもその他の言語でも言えるが、正しい正しくないというだけでなく、業界で一般的に使われている用語を使わないと、それだけで読んでよく分からないマニュアルになってしまう。翻訳を一読すれば、知識のない翻訳者の仕事なのか、用語を調べる習慣のある翻訳者なのかわかる。

数ヶ月してクライアントから展示会の招待状が届いた。会場について驚いた。輸入商社の小さな小間にのぼり旗までたてて、ちょっと恥ずかしい。そののぼり旗、黄色地に赤い大きな字で「分かりやすいマニュアル」と書いてあった。そりゃ、そうだ。俺が書いたんだから、……。翻訳のときに世話になった人が、「ちょっと待ってください」といって、ストックルームから豪華なスイスアーミーナイフの粗品をもってきてくれた。あとは機械が売れれば、翻訳屋冥利ということなのだが、慈善事業でもあるまいし、そこまで丁寧な仕事をしていると、飯の食い上げになってしまう。

必要最低限の知識もなく、調べる気持ちもない翻訳者に任せて、ドイツ語から英語、英語から日本語への二段階の翻訳を経た書類など何が書いてあるのか分かったものではない。後年、イタリア語がオリジナルのマニュアルから英語に訳されたものを日本語に翻訳する羽目になったが、何が書いてあるのかいくら読んでもわからなかった。製品はCNC、その制御対象の工作機械も素人じゃない。そんなマニュアル、読んで分かる人はいない。「紙ごみ」以外のなにものでもない。その「ごみ」をマニュアルとしているメーカ、そんな翻訳をしている翻訳者、事故でもおきたら、どうするんだろう。
2017/3/5