翻訳屋に(11)―英語の勉強2

どういうわけか工場の朝は早い。事務所は九時からだが、工場は八時から始まる。田無から我孫子へは、朝六時前の電車に乗らなければ間に合わない。定時でさっと切り上げても、九段下の英会話の学校には一時間目が終わるころにしか着けない。転職して、通勤が新橋になって通学も楽になった。

技術の勉強からは開放された(と思っていた)が、英語をなんとかしなければと焦る。それでも英会話の学校にも余裕で行けるし、英語の勉強に集中できるようになったと喜んでいた。このままいけばと思っていたが、長くは続かなかった。問題になることは転職する前から分かっていたことなのに、そのときになってみないと真剣にならない。通っていた英会話の学校にもう行くクラスがなくなった。クラス3から始めて6も終わって、上に特殊クラスとして二つあったが、どちらも終わってしまった。学校に行く必要がないところまで、実力がついたのならいいのだが、英語に不安はあっても自信の「じ」の字もない。

英会話学校を探して、ここなら間違いないだろうと、神保町の駅の上にあるイギリス英語系の会話学校に行って相談した。まずはペーパーテストを受けてといわれて、その結果をもって先生と面接した。面接が世間話のようになってしまって、「どのクラスでも好きなところに入ればいい」と言われた。そうは言われてもと思いながら、アドバイスされたクラスに通った。九段下の会話学校の特殊クラスと似たような感じで教科書なしの授業だったが、英語が上達しそうな実感は何もない。半年ほどで辞めた。

英会話の学校で行くところが見つからない。ものは試しにと、新聞社の名前がついたカルチャーセンターに「ニューヨークタイムズを読む」というクラスを見つけて通ってみた。先生について、新聞の読み合わせのようなことをやっても、どうなるとも思えなかった。

たとえ少人数のクラスであっても、クラスの勉強ではこれ以上の上達が難しくなっているのだろうと考えて、個人教授を売り物にした英会話学校に行きだした。一対一の授業は高い。毎月十万円以上かかる。それでも生活を切り詰めて通った。そこでも期待した上達が望めないことが分かった。一対一はいいが、行くたびに先生が違う。一人に固定してしまうとその先生の個性というのか癖がでる欠点があるが、行くたびに違うと、授業の内容が違っても、レコードの針が飛んで前に戻ったような気がしてくる。コストに見合った向上はなかった。

英語を使うことも限られているから、英会話の学校に行かなければ、それでなくても低い英語の能力が落ちてゆく。どうにかならないかと思って、エリックとセアーに世間話がてらに相談した。セアーの知り合いに外国人に英語を教える資格?をもったアレックスがいるというので会いにいった。よさそうな人だったが、もうスケジュールがいっぱいでこれ以上は生徒を増やせない。アレックスにデニスというのを紹介してもらって、相談にいった。デニスのところに数回行って、これではと止めた。プロ意識が足りないと言うのか、行くたびに彼女が遊びにきていて、世間話にしかならない。セアーに事の次第を話したら、いつもだらだらしているセアーらしくもなくかなり熱くなって、デニスを紹介したアレックスに対して怒っていた。人のことを言えるのかと思うのだが、セアーに言わせると、デニスは不良外人の典型で、面も見たくないと剣幕だった。

どうにもいい方法がみつからない。飲み屋で飲んでいるときに、セアーが「アメリカ人の彼女をみつけるのが一番手っ取り早いんじゃない」か、と冗談交じりに言った。それまでもセアーが似たようなことを何度か言っていたが、何をありえないことをと相手にしなかった。エリックも話しに乗らなかったのに、どういうわけか、「そうだ、もう、それしかない」と言い出した。
三人とも、英語の勉強をどうしたらという話題が面倒になって、もう笑い話にするしかなくなった。「アメリカ人の彼女たって、どこに行けば見つかるんだ」とセアーに訊いたら、「そりゃ、マクドナルドだろう」「あそこなら、いくらでもアメリカ人の女子がくる」
それを聞いたエリックが、「そうだ、六本木でも新宿でもいい。マックなら、待ってりゃ、必ず来る」
「そうは言っても、どう見ても、若い女子のに好かれる顔でもスタイルでもないぜ」「アメリカ人の方が脚も長いし、胸板もごついし、かっこいっこないじゃないか」と言い返した。
セアーが「それが間違いだ」「アメリカ人の男は、日本にまできて、わざわざアメリカ人の彼女なんか冗談じゃないと思ってる」「アメリカ人の男は馬鹿だから、日本人女性はおしとやかで、やさしいと信じ込んでる」「そんなやつらが、主張の強いアメリカ人の彼女を、日本で?ありえないだろう」「わかるか、ここはがんばりどころだ、マックに行け」
そう言うセアーも彼女がいたことがないのを知っているから、「じゃあ、セアー、一緒にマックにいって、おれはアメリカ人、お前は日本人の彼女を探すか?」
似たような話しは何度もあったが、じゃあ、行くかにはならかい。二人とも、ある意味典型的な横着ものだった。

困った、適当な学校もないし、個人教授も高すぎるし、いい先生が見つからない。このまま半年も一年も放っておけば、間違いなく英語の能力が落ちる。どうしたものかと考えていて、毎週土曜に勉強会を開いている人の言葉を思い出した。
あるとき、「あんたなにやってんの」の口癖のあとに、「あんた何になりたいの?」「翻訳なのそれとも通訳なの?」そうは言われても、そこまで考えたことがなかった。情けないかな、素人の理解では、どっちも英語で、英語の能力の使い方でしかない。はっきりしない新米に、「あんたなにやってんの」。この言葉がありがたかった。ここから身の程知らずの同時通訳の勉強が始まった。
2016/12/25