翻訳屋に(13)―夢のきっかけ

親父が引退した後に住もうと買った3LDKのマンションが我が家の倉庫のようになっていた。駐在に持ってゆかない荷物をそのマンションにおいておいた。帰任してそこに一人で住み始めた。一人といっても夕飯は実家に立ち寄ってだったし、洗濯物はお袋が勝手にもって行ってもって帰ってきたから、離れた実家に住んでいるようなものだった。マザコンというらしいが、面倒なことはすべて実家まかせで、自分では銀行にいったこともない。必要になればお袋から小遣いをもらう生活だった。いくら収入があって、いくら使っているのか考えたこともない生活を続けていた。

銭勘定をしたことはないが、安月給にかわりはない。道楽といえばオーディオシステムを組み上げることと英語の勉強くらいだった。生来の下戸で、忘年会など飲むことはあっても、自分から行くことはなかった。遊びに行くといっても吉祥寺か高円寺のジャズ喫茶で高専の同級生だった友人と一緒にだらだらしているくらいで、三十近くなっても何もない生活だった。

たいした金額ではないが冬のボーナスをもらって、ちょっとリッチな気になった。年末だし二人して一端のサラリーマンらしく、忘年会でもしよう、羽目をはずして遊びに行こうと吉祥寺で待ち合わせた。年末の街はそれでなくても人が多い。二人とも下戸で、人混みのなかを歩いても、どこにいったらいいのか見当がつかない。吉祥寺は勝って知ったる街で、見て知っているだけにしても、どのあたりにゆけばどんな店があるのかわかっている。二人であの辺りにしようと歩いていくのはいいが、いったところでどの店にするかが決まらない。居酒屋でも焼き鳥やでもスナックでもなんでもいいが、似たような店に入ったことがないから、ドアを開けるのが怖い。どこにいっても、度胸というほどのものでもないが、最後のここにしようがない。あっちにしようか、こっちはどうだろうかと、いってはみるが、どのドアもあけられない。

それは、決めかねてというとはちょっと違う。決めかねてというのはいくつかの選択肢があって、どれにするかを迷っている状態をいう。どれにするかというどれという候補を決められない―決めかねての前の段階から先に進めない。何も決められない不甲斐なさに、歩き疲れて腹も減った。そこに前に一度入ったことのあるとんかつ屋「紋」が目に入った。南口を出て直ぐ右、三鷹に向かって歩いたところにあった。なんでこんな狭いと道にバスが走っているんだという道に面した引き戸を開ければカウンター席がある。たいした金額ではないしにしても、使っちゃえという金をもって、なんでこんなところにしか入れないんだという気持ちを、まずは座って腹ごしらえしなきゃといういい訳でおして入った。安いとんかつ屋で、出てくるのは貧乏たらしい薄いカツ。それでも二人には十分なご馳走だった。フツーだったら、飯の前にのどを潤してになるのだろうが、そこでビールの一本も頼めない。コップ一杯も飲めば真っ赤になってしまう下戸には、普通の自然な流れが分からない。定食がでてくれば、ガツガツ食べてすぐ終わってしまう。お茶をもらっても早々に出てゆかなければならない。

腹が一杯で落ち着いたはいいが、もう歩くのが面倒になった。北口に抜けてダイヤ街から一歩北に入ってコンパにいった。何もない、ただ前に先輩に連れられてきたというだけで、開けるドアが軽い。席について、ウィスキーを頼んではみたが、二人とも数杯飲めば出来上がってしまう。弱いなら弱いなりに時間をかけて飲む工夫もありそうなものなのだが、飲む機会のほとんどないものにはそんな知恵もない。

よっぱらって表で出て時計をみたら、まだ九時前。一万円札を何枚か握り締めて遊びにと繰り出したが、どうすることもできない。 どうすることもできないといっても、道で立ち尽くしているわけにも行かない。しょうがないからいつものジャズ喫茶にでもゆくかと思いながらも、二人ともそれを口に出すのをためらった。立っていられないからというだけで、歩いていて、また南口にでてしまった。南口を出て道の向こうの右手に週刊誌や雑多な本しか置いていない立地だけでくってる本屋があった。どちらがということもなく、二人して時間つぶしのような感じで本屋に入って、あちこち見たが、手にとって見るような本はおいていない。

だらだらとみていたら、英語のプロになるというような、見るからに内容のなさそうな本が目にはいった。何気なく手にとって見ていったら、検定試験の解説のページがあった。そこにTOIECで八〇〇点もとれば英語の黒帯と書いてあった。

本を読みながら、十日ほど前にでたクラス会で聞いた話を思い出した。何年か前に出たクラス会で厭になって、二度と出ないと決めていたのに一人に会いたくて出かけた。社会にでて数年すれば、キャリア組みの学卒の下で使いまわされる要員に過ぎない高専出の立場を実感する。すでに半分近くは転職していた。若さにまかせた暴れん坊で、どうしようもないヤツまでが去勢された犬のような口ぶりになっていた。それが社会人になった証といえないこともないのだろうが、そんなのが二十人も集まったところに何があるわけでもない。一緒にいるだけで生気を失いかねない。

高専では毎年二三人留年していなくなった。そこに上からも二三人留年して落ちてくる。留年の直ぐ先には中途退学がある。四十人の定員のクラスなのに卒業したときは二十六人にまで減っていた。そのなかで、三人が大学に進学した。高専では入試のための勉強などしないから進学はきつい。もともと優秀なヤツしか進学など考えない。三人のうちの一人がキリスト教大学に進んで、その後アメリカに西海岸に留学までして、英語の研究者の道を歩もうとしていた。

自力で将来を切り開いちゃろうと思っているのが一人いる。それがうっとうしいと思う連中がうるさい。こなきゃよかったと思いながら、うるさいのを適当にあしらって、英語の先生になった(と思っていた)のに訊いた。「留学するには英語の試験もあるんだろう?」他の同級生とは話が合わないで、ぼんやりしているところに自分の専門に関する話題を振ってきたのがうれしかったのだろう。
「おれは、まだ仕事がないんだ」「つくばにいさしてもらってるけどポジションが空かないというのか、ポジションを狙える位置にまだついていないんだ」「毎日なにやってんだ」「比較言語学だから、毎日じっと構文をみてる」「おいおい、もうすぐ三十だぜ」「高望みしないで、どっかの女子大でもなんでもいいじゃねぇか」「いや、そうはいかない、どうしても国立に残るつもりだ」「英語の試験なんだけど」「ああ、留学となるとTOFELというのがあるが、社会人だったらTOIECだろうな」「俺一応英語が専門だけど……、TOIECは知らないけど、千点満点でせいぜい六〇〇点台じゃないかと思う」「そんなに難しいんか?」「英語が専門といっても、おれは比較言語学だから、よく知らない。俺はその程度だと思ってる」

英語の検定試験といえば英検しか思い浮かばない時代だった。TOFELだとかTOEICは海外に行ったか接点をもっている人たちしか知らなかったと思う。まして川を渡れば茨城県というところに本社を構えた古い会社ではそんなもの聞いたこともなかった。 どんな試験なのかを知るためにもと考えて受けてみた。一月か二月か忘れたが、寒い日だった。トイレにつかえるのが怖くて、来ていたダウンジャケットをひざ掛けにして、上半身が寒かったのを覚えている。
二ヶ月ほどたって成績に通知がきた。準備という準備もなしで受けて七九〇点、。受験勉強もしてないし、まともに勉強をしてこなかったから、文法で点を落としていたが、聞き取りで間違えたのは一問だけだった。五〇〇点もとれれば御の字と思っていたから、こんなテストだったのかとがっかりした。ぺらぺらしゃべっていても、英語に自信など微塵もない。それがほとんど黒帯?そりゃないだろう。そんなに天井が低いわけがない。帰国して英会話の学校に通い始めていたが、これから先どうするかの方が気になった。

この七九〇点が英語でなんとかという、ぼんやりと転職を考えるきっかけになった。
知らないということからくる無謀としか思えない、思いの強さが先を切り開くことがある。
2017/1/8