翻訳屋に(14)―英語で勉強する

同時通訳の養成校で、逐次通訳の初級クラスから始めて同時通訳の中級までいった。予習復習に八時間から十時間かけて、寝食を削ってまで勉強した。三ヶ月ほどの学期に四十万円以上の授業料を払って、二年半。同時通訳のまねことができるようにはなったが、何が残ったとも思えない。英語を専門としてきた人なら、最初からわかりきった当然の結果なのだが、それを知るための時間と金だった。同時通訳の養成校は、日本語と英語でバイリンガルに近い能力をもった人たちが、同時通訳に必須のテクニックを身につけるところで、英語の勉強をするところではなかった。テクニックがどうのという前に英語の能力が低すぎた。

英語の基礎能力といっても、同級生のように比較言語学を専門とすれば、大学の教授レベルにいたっても、日常生活においてバイリンガルである必要もない。まして技術資料の翻訳で飯を食っていこうとするものには、英会話学校も同時通訳の養成校もたいした助けにはならない。

まがりなりにも機械工学を専攻して、仕事を通して工作機械の制御を勉強はしてきたが、翻訳の仕事で知らなければならない技術領域はあまりに広い。ロボットもあれば医療機器もある。パンの製造ラインもあれば、コンドームの製造・検査もある。なかにはブタの運搬船のマニュアルなどという想像したこともないのが出てきて、手を焼いたこともある。どの書類もそれぞれの専門分野の内容で、技術屋としての汎用基礎知識だけではついてゆけない。

日本語の本であれば、大きな本屋にゆけばそれなりの参考書もあるし、大学の工学部で使用する教科書の類もいくらでも見つかる。ところがこと英語でそれぞれの専門領域にまで踏み込んだ本はなかなかない(と思っていた)。
インターネットなど考えられなかった時代、知識は本から得るしかない。あれこれ探しているうちに日本橋の丸善に欧米の大学で使っている教科書のリプリント版があるのに気がついた。その気になって探していけば、電気通信技術やサーボ技術や自動制御の基礎、半田の評価や乗用車のメンテナンスなどというものも含めて教科書のレベルであれば、ほとんど何でも手に入る。なかでもMcGraw-Hill社のリプリント版(International Student Edition)に助けられた。高くても四、五千円もだせば買える。
勉強しておかなければという本を買って、毎晩読んで、使える文体を書き出して、自分が日本語で言うとしたらこう書くだろうという日本語とセットにして辞書を作っていった。読み進めると同時に似たような内容の日本語の教科書も買って、英語を主体に日本語を従として勉強した。

それでも教科書はしょせん教科書で、実務で必要とする個々の領域にまで踏み込んだものはない。前もっての準備は大学の教科書レベルまでしかできない。ジェットエンジンに保守説明書の翻訳がきたときには、どうしたものかとあせった。ディーゼルエンジンまでなら分からないこともないが、ジェットエンジンは原理をしっているだけで、細かなことは何も知らない。
そこは東京、探せば工業会の事務所がある。工業会の事務所の多くには資料室があって、それなりの資料を閲覧できる。翻訳者で参考資料を探していると相談すれば、係りの人が親切に相談にのってくれるところも多い。ここにはこの程度しかないけど、xxxにゆけば、もっと参考になる書類がおいてある。今からいけるのなら、電話しておくからといってくれるころまである。資料を販売しているところもあって、値段は高いが、まともな翻訳をしようとすれば、買って参考にするしかない。

それを見ていたエリックとセアーがアメリカ大使館の図書館にゆけば、アメリカの業界紙があるといって、連れていってくれた。アメリカ人二人と一緒だったが、拳銃下げた守衛に腰が引けた。一度経験してしまえば、なんということもない。二度目からは、ずうずうしく通った。さすがにアメリカで、ニッチの産業の業界紙まであった。一般機械や工作機械に半導体に石油化学やアパレルからパスタ業界のものまである。どれも月刊誌で、前年のものを一冊百円で処分していたので、処分の時期を見計らって行っては古雑誌を漁った。業界紙の多くは三ヶ月か半年ごとにリファレンスの特集号を出していて、これは技術翻訳をするものには宝物だった。

こうして必要とする基礎知識を日本語と英語で蓄積していった。訳のわからない日本語の原文をどう理解すればいいのかを、日本語の資料からの知識で補って、書く英語は英語の資料からの借り物。技術翻訳はこうしてゆくしかないと気がついた。こんな作業をくりかえしていれば、日本語を字面で読んで、何が書いてあるのはわからない英語に翻訳している多くの翻訳者との仕事の質が違ってくる。その違いに気づいたクライアントからリピートオーダーが入るようになった。ページ数にもよるが一冊翻訳しようとすれば、短くて二週間、厚いものでは一ヶ月以上かかる。翻訳会社はクライアントから翻訳者に直接コンタクトすることを嫌う。翻訳者に直接話をした方が翻訳の質を高められるが、中抜きされる可能性がある。

クライアントは翻訳した翻訳者の名前を知らされていていない。リピートを出すときに、この間の翻訳者ではなく、その前に翻訳者に翻訳してほしいという注文をつけだす。だされたところでこっちは仕事をかかえているから、手をつけられない。時間の余裕があれば、クライアントがこっちの手があくまで待ってくれる状況になる。仕事が来るのを待っているのではなく、仕事がこっちを待っている。
翌月には仕事がないかもしれないという恐怖から開放された。自分の領域からかけ離れた領域の仕事であれば、平気で断れるようになった。断ったところで、すぐに仕事は回ってくる。来るものをどれもこれも請けていたら、寝る時間もなくなる。自分で仕事を切らないと、土曜も日曜もなくなってしまう。

翻訳するたびに客先ごとの用語辞典を作っているから、リピートはおいしい。まるで水商売と同じで、なじみ客からのご指定のようなもの。仕事とはリピートが入って初めて仕事をしたことになる。リピートのこない仕事は仕事じゃない。
2017/1/15