翻訳屋に(16)―縛りのない社会

翻訳志望者も仕事も流れてくるが、そんなところには、いろいろな経歴(と呼んでいいのか?)の人たちが営業マンとしても入ってくる。なかには同業や近隣の業界からの年配の人たちもいるが、どう見ても別世界からきたとしか見えない若い人たちもいる。会社でピンクのスーツやほとんど白に近いスーツを見たときには、驚きを超えたものがあった。工作機械メーカには自動車通勤の若い職工さんも多い。なかには、女性もののサンダルをひっかけてに見えるのもいたが、すぐそこは茨城という千葉の田舎、地元のやくざでもピンクや白のスーツはない。それも二人そろって、ピンクと白のスーツに白の靴、映画の世界でしかなかったものが目の前にいた。

それとなく前職を訊いて驚いた。想像したこともないだけに、最初何を言っているのか分からなかった。ちょっと前まで、新橋かどこかのキャバクラか「なにか」の呼び込みをしていた。
声を立てるのもはばかる翻訳室で、わけの分からない日本語の原稿と取っ組み合いに明け暮れているところに、その非日常の人たちの「なにか」の話は説明のしようもないほど新鮮で面白い。まじめに仕事の話で始まっても、いつのまにやら風俗と下ネタのなる。一人ならそんなに広がないのが二人三人とそろってくると、それはもう業界の裏話で花が咲く。内輪にいた人たちだけに、話が具体的で堂にいっているというか、外のものには想像もできない描写に想像が広がる。何度か、今度撮影があるから連れてってあげようかと言われたが、話までだった。二度とない機会、惜しいことをした。

営業見習いなのだろう、めったに事務所にはない。営業に飛び回っているのだろうが、馬鹿話を聞いているだけに、どこで何をしてるんだかとしか思えない。翻訳も営業もいつまで続くのかという人たちが目につくが、さすが日本で二番目の事業規模を誇る翻訳会社、しっかり顧客をつかんでいる営業マンが何人もいた。なかには仕事ができるというのを一歩二歩はみ出てしまって、海千山千のブローカーかのような口ぶりに人までいた。

翻訳業界の本質的な体質なのだが、会社と翻訳者と営業マンの関係がゆるい。客をしっかりつかんでいる営業にかぎって、翻訳会社からのしばりが弱い。それは運転手に車を提供しているタクシー会社よりはるかに弱い。翻訳会社のほとんどは内勤の翻訳者を抱えていない。翻訳会社の看板はあるが、翻訳するのは外注のフリーの翻訳者。フリーの翻訳者にしてみれば、勝って知ったる分野のおいしい仕事をコンスタントに持ってきて、支払いがしっかりしていれば、所属している翻訳会社の仕事でも、翻訳ブローカーからのものでもどっちでもいい。

内勤の翻訳者にしても、売り上げの半分しかもらえない社内の正式ルートで回ってくる仕事より、翻訳ブローカーが回してくる仕事の方の実入りがよければ、アルバイトに精を出す。
できない翻訳者や営業マンは、所属する会社のシステムに乗らなければ飯を食っていけないが、できようになればなるほど、会社との距離を自分の裁量で調整しだす。調整しだしたことに薄々気がついても、会社としてはなんとも打つ手がない。
最低限注意しなければならないのは、大口の固定客を握っている営業マンが客をもって独立しないことだけになる。巷の多くの翻訳会社が客をもって営業マンがスピンアウトして創ったものだろう。

ここで興味深いことがある。翻訳者がいないことには翻訳業はなりたたない。でも翻訳業として成り立つというのと翻訳会社として飯を食ってゆくのはちょっと違う。仕事をもってこれる営業マン―それがブローカーのような一匹狼のような人でも―がいないことには、翻訳者がいても翻訳にもならなれば、翻訳会社にもならない。(おいしい)仕事さえとってこれば、翻訳者の手当てはどうにでもなる。請け負った仕事を、知り合いの、こいつならという翻訳者に任せればいい。社名と住所と電話があって翻訳会社としての体面さえ整えられれば、いっぱしの翻訳会社になる。
モノをつくれるから売れる時代から売れるから作れる時代になって久しいが、翻訳業界はその始まりからして、翻訳の仕事をする翻訳者は裏方で、主体は仕事をとってこれる営業マンだった。

翻訳会社の営業マン、給料の多くは歩合制だから、割の合わない会社への忠誠など期待されても困る。スピンアウトしないまでも、正式に所属している翻訳会社と、その都度仕事を持ち込む別の翻訳会社の二股三股かけてもおかしくない。コストというコストもかからないブローカーのような営業マンが仕事をもってきたら、支払いに心配がないかぎり、翻訳会社としては断る理由はない。クライアントからの支払いをどうするかさえ整えられれば、よその翻訳会社のカンバンを背負って歩いている営業マンからの仕事の横流でもあってもかまわない。
会社と営業と翻訳者が三者三様の立場でときには利益共同体として、ときには浮気をしてという、たいした縛りもない、持ちつ持たれつの自由業。そこにコスト意識はあっても翻訳された書類を評価する能力のないクライアントがからんで、それなりの翻訳業界が生まれる。
2017/1/29