翻訳屋に(17)―英語の勉強3

九段下にあった英会話学校は、フォード財団が後ろ盾になっているだけあって、しっかりしていた。先生たちも英語を母国語としない人たちに英語を教える資格をもっている。いい学校にいい先生なのだが、生徒をおだててその気にさせるアメリカの教育思想が、詰め込み教育で育った日本人にはなじまない。仕事で忙しいなか通ってくる生徒への理解はいいが、先生が必要以上のやさしくて、勉強しなきゃというプレッシャーがない。情けないことにプレッシャーがないと勉強に力が入らない。
上級のクラスになると、残業手当までもらって来てるのも多くて、切羽詰ったところのある人はほとんどいない。自腹で通っている生徒のなかには、英語でなんとか将来の活路をと思っているのもいるが、一人二人でばたばたしようものなら、クラスのなかで浮いて終わりだろう。がりがりやるにしても、それは家でのはなしでクラスには持ち込めない。

週明けの授業では、一人ずつ週末をどうすごしたかを話すことになっていた。こんなことを一時間かけてやって何になると思うのだが、英会話教室では今でも定番の授業だろう。先生は椅子に座って聞いているだけで、コメントひとつするわけでもない。教える側にとってこんな気楽な授業はない。教える熱意などどこにもない。「いいねぇ」とでも教えた九官鳥の方がよっぽど気がきいている。クラスメートがつたない英語で何をしゃべったところで、面白い話がでてくるわけもなし、聞きたい話などありゃしない。男連中のどうでもいい話にもうんざりするが、女性たちの、どう聞いても見栄をはりあっているとしか思えない話なんか、聞こえてくるだけでも疎ましい。誰も話したくもなければ、聞きたくもないカラオケ以下の一時間、時間の無駄以外のなにものでもない。

十人ほどのクラスの五、六人は東大経済学部卒、東京銀行に入行して二年目の人たちだった。富士高校からというのが一人いたが、その人以外は全員開成中学から一緒で少なからず仲間意識がある。外為銀行のキャリア組み、遠からず海外支店に派遣される。そのための最低限の英語の基礎づくりなのだろうが、駐在してしまえば、こんなところで勉強したことなどあっという間に意味のないものになってしまう。それが分かっているから、授業に身が入らない。残業手当もでるし、海外に出なければという気持ちがあるから来ているというのがありありと見える。何人かが使っていたノートが彼らの立場を象徴していた。大学の生協で買ったノートが残っていたからといっていた。大学ノートに印刷された東京大学の「大学」を二重線で消して、「銀行」と書いてあった。

就職して一年ちょっとだから、学生意識が抜けないのもしょうがない。大学時代の仲間内の話を持ちだされても、結婚式のスピーチのようなもので、部外者には分からない。神経をつかう環境にいたことがないだけでなく、そんな環境があることを想像したこともないのだろう。高卒の職工さんが多い機械屋では、大学は話題にしてはいけないという常識があった。そんな話題を口にしようものなら、それだけで現場の人たちの反感を買う。大学を出ていれば日の当たる社会人としての生活が保障されている時代ではなくなってきてはいたが、圧倒的多数が高卒の社会では大学の「だ」の字も出してはいけない。

工作機械の技術屋への道が閉ざされて、なんとかしなきゃと通っていた。定時でさっと切り上げて駅に急ぐのをみて、あいつはいったい何をやってんだろうと馬鹿にされていた。週二日は残業できないから、残りの三日はみんなより一時間多く残業して、周りとのバランスをとった。方や安月給のなかから、生活を切り詰めて通っている油職工くずれ。方や会社の金で、残業手当までもらって通っている華の外為銀行のキャリア組。越えようのない彼我の差がある。
戦前からの学歴社会がそのまま残った会社で、油職工になりそこなったものには、東大経済と聞いただけで、気後れする。海外が近くなったとはいえ、外為専門、言ってみれば海外が日常の人たち。どうしても、水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」に近いものを感じてしまう。

東大東銀の人たちが目立つ中で、二人ちょっと違うのがいた。違うといっても程度の差でしかないが、それでもその違いが二人と東銀の人たちの間の壁になっていて口も利かない。一人は東北大学の経済出身で興銀の人だった。自費なので授業料を捻出するために、女房にピアノの先生を始めてもらったといっていた。もう一人は富士銀行の女性で、いかにも英語を勉強してきた感じの人だった。ある晩、帰りに駅まで一緒歩いていたら、同僚の女性と偶然であった。その人も英語の学校帰りだった。軽い挨拶を交わして分かれて歩いていく途中で、ちょっと畏敬と羨望の混じった口調で、私なんか足元にもおよばないくらい英語ができて……。いつもは控えめな人なのに、自分もいつかというむき出しの向上心に気圧された。その同僚の女性が通っていた学校が後年通うことになる同時通訳の養成校だった。

休み時間になると廊下で決まって東銀の人たちと世間話になる。エリートでしょうという気持ちもあって、つい口調が丁寧になる。年齢も上だしニューヨークの駐在経験もあってからだろうが、それなりに話をしてくれた。「俺たちは東大の落ちこぼれだから」が口癖というか、まるで合言葉のようだった。何かのたびに「成績のいいやつは東銀なんかに来やしない」「大蔵か通産、悪くても三菱や興銀あたりの大手都銀で、東銀なんてのにはクズしかこない」富士銀行はでてこなかったが、その口調は自嘲気味を超えていた。

話をしていて、職工さんたちとは違うのだが、特別なにかがある人たちにはみえなかった。何を話してもフツーのどこにでもいる若い人たちだった。山口百恵の話でもりあがったかと思えば、日々のつまらない仕事の愚痴を言い合っていた。蒲田支店の人が「このあいだ、チャリンコで走っていたら、蒲田は平らで坂道なんかないのに、突然上り坂が出てきて、びっくりした」「なんなんだと思いながら、ひーひーこいで上っていったら、ぱっと目の前に東京湾が開けた。久しぶりに見る海に海だ、わーって思ったけど、一瞬で力が抜けちゃった」「客にはパチンコや水商売のようなところも多くて、毎日集金に通うんだけど、あの手の世界にはどうしても慣れない」「銀行マンなんて、ろくでもない仕事で、エンジニアの方がよっぽどいい」「なんで銀行なんかに就職しちゃったんだろう」

東銀にいる限りはエリートという、一歩引いた余裕なのだろう、大学のことから銀行の仕事まで、気の張ることのない話にはすがすがしいものさえあった。英会話の学校でもなければ、会うことも話をすることもない人たちだった。
ただそこには職業人として超えがたい壁があった。三年の駐在を経験した三十近くの油職工崩れと、これから海外へという二十代半ば前のエリートが同じレベルのクラスにいた。それだけでも内心は下に見られていたと思う。ひがみではなく、公平に人材としてみたときの両者のポテンシャルの差は、あまりにも歴然としていた。
2017/2/5