翻訳屋に(29)―FENを活用する

プルーフリーディングをしていたエリックやセアーと話をしようとすれば英語なるが、話せなければ仕事にならないわけではない。翻訳者というと、英語は堪能なのだと思う人が多いかもしれないが、ほとんどが英語での会話は不自由だった。技術翻訳で飯を食うのに、聴いたり話したりは必要ない。ただそうはいっても、読み書きだけで英語で碌を食んでいますというのは、ちょっと気がひける。

日本語と英語で技術的な理解を深めようと思うのなら、英会話などに時間をかけずに、技術書を読むことに専念したほうがいい。なんとしてでも翻訳者にならなければと切羽詰ってはいたが、それでも会話ができなければと思っていた。英会話の学校に通って、個人授業も受けて、最後は通う学校がなくなって同時通訳派遣会社の養成校にまで通った。そこまでしても、会話には自信がなかったし、今でもない。丁々発止で意思疎通はできる。普通の人が傍で聞いていれば、流暢な英語を話しているように聞こえただろうが、そこまでだった。

テレビでは二ヶ国語放送が増えていたし、英会話を独習するための教材にも事欠かない。千円二千円だせばそれなりの教材が手に入る。ただ教材で勉強できるのは教材で勉強した英語まででしかない。いつまでも教材にとどまっていてもしょうがない。生きた英語、ネイティブの日常の英語に一歩でも二歩でも近づくにはどうするか。あれこれ考えた。会話になると、相手がいないとどうにもならないが、聞き取りまでなら、一人でできる。会話をと思う前に、まず相手にしてもらえるレベルの知識も含めた英語の能力をつけなければならない。きちんと聞き取れれば、使える語彙が限られていても、それなりに答えて会話がなりたつ。まずは聞く能力の向上を優先した。

二ヶ国語のテレビ番組を録画して何度も見るのもいいが、映画やテレビでは画面が説明していることもあって、言葉での意思疎通ということでは質が落ちる。そこで思いついたのがFENだった。何かのたびにFENを聞いては、適当な番組を探した。見つけたのは「Mystery theater」と「All things considered」や「Fresh air」だった。ニューヨークに駐在していたときにNPR(National Public Radio)で聞いた番組で、「Mystery theater」はテレビが登場する前のラジオドラマ、「All things considered」と「Fresh air」は時事ニュースの解説や気候変動や人種差別などの社会問題の解説番組だった。

どれも、テレビのように画面がない。すべてを言葉で伝えなければならないから、英語を聞く能力のトレーニングにはうってつけだった。ラジカセにタイマーをセットして、毎週番組を録音した。録音したテープを最初はラジカセで、次にディクティフォンを買って、テープお越しをした。聞き取れないところを何度も何度も数え切れないほど聞きかえして、前後関係からこういっているのではないかと、辞書をひっくり返すように思い当たる単語を探した。

普通のカセットプレーヤはディクテーションに向かない。ディクテーションでは、繰り返し一文字だけ戻したいといことがある。巻き戻しボタンを押せば、ボタンが沈んで戻り過ぎる。あまりに頻繁な繰り返しをするものだから、多少高いカセットプレーヤでも、一年も使えば壊れる。普通のカセットプレーヤは頻繁な繰り返しを想定していない。当時、ソニーがディクテーション専用のカセットプレーヤを出していた。値段は気の利いたラジカセの二倍以上したが、堅牢な設計で頻繁な繰り返しをしてもびくともしなかった。今ではパソコンが行き渡って、ディクテーションのフリーソフトウェアがある。

思いたっては、テープお越しをした原稿をみながら、テープについて英語で追いかけて言っていく作業を繰り返した。原稿をみながらでも、ネイティブの話にはついていけない。いくらやっても数分が限度だった。集中しなければできないこともあって、続けても三十分かそこらしかできない。疲れてやめて、またちょっとたってから再挑戦という感じで、この作業を繰り返した。今日日その作業をシャドウイングと呼ぶらしいが、そんな気の利いた名前などなかった。いろいろ試していくなかで、シャドウイングが英語を聞いて話す訓練には最善の方法だと思う。

最善の方法なのだが、ひとつ問題がある。ニュースや解説番組ならいいのだが、「Mystery theater」のようなドラマになると、合間にナレーションが入ったところで、生きた日常会話が続く。それを追いかけて言おうとするのだが、おばかな役者もどきのようになって、とてもではないが続かない。シャドウイングは日常会話には適さない。会話を拾うのはテレビドラマにならざるを得なかった。
2017/4/30