OJT、見よう見まねじゃないか(改版1)

社員の実務能力の向上を目的として、多くの企業が体系だった社員研修を整備してきたが、実のある研修を実施するには専任部隊も必要で、かなりのコストがかかる。そのため、企業によっては、新入社員教育や営業マン教育など汎用的な研修はコンサルタント会社に外注しているところもある。

汎用的な研修であれば外部に委託もできるが、実務研修となると企業のありようそのものになり、社内で研修プログラムを用意しなければならない。高度成長にともない、高度な知識が求められ時代になって、見習いながらの研修を残しながらも体系だった研修プログラムが主体になっていった。ただ、いつの時代にも時代の流れから距離をおいた組織が残る。研修プログラムを用意する意識もなく知識や能力もないところでは、今も変わらず見よう見まねで実務能力を培っていく方法がとられている。それでも体系だった研修プログラムの手前もあってだろうが、「見よう見まねの見習い」とは言えずに「研修」と呼んでいる。そうはいっても、体系だったものでないことに、どことなく「恥ずかし」さがあった。

ところが、「見よう見まねの見習い」をいつの頃からか、オン・ザ・ジョブ・トレーニング(以下OJT)と呼びだした。英語の響きに力をかりて、「見よう見まね」にはあった「恥ずかし」さが薄れて、体系だった研修より新しい時代にマッチしたトレーニングだという誇りに近いものさえ感じさせるようになった。
OJT、初めて耳にしたときは、効率のいい新しい研修手法でも開発されたのかと思ったが、転職して、実際になんどかOJTを経験してあきれた。OJT、なんのことはない、昔からある「見よう見まね」となにも変わらないものだった。
基礎的なことがらの研修に続いて、実務に関する研修をいくらしたところで、最後は仕事を通して実務能力を培うしかないのはわかる。それでも、ろくに実務能力の基礎研修もせずに、社員を現場に放り出してしまうのをOJTという英語の響きが正当化しているような気がしてならない。

体系だった研修プログラムを構築する能力も意思もない企業にしてみれば、できるだけ簡単な社員導入研修のあと、即実践の場に放り込んで、OJTにしてしまったほうがコストも手間もかからない。知識や能力よりやる気さえあれば、体力さえあれば、どうにかなる業界や仕事であれば、それでいかもしれないが、多少なりとも付加価値の高い仕事が求められる業界では、OJTを押し付けられた現場には新人研修の負荷がかかる。負荷までなら社内のことですむが、不慣れな新人のミスから事故やクレームにつながることもある。基礎訓練だけで、実戦訓練をせずに新兵を戦場に送り出したら、どうなるか想像してみればいい。

体系だった研修では形式知として知識が提供され、業務全体を鳥瞰する能力が養われるが、OJTで得られる知識は、実際に遭遇した経験に基づく知識が主体となる。そのため、形式知化し得ない暗黙知も得られる反面、個々の知識が断片的な情報の寄せ集めになってしまう可能性が高い。この断片的な情報は、それを整理して再構築する基礎能力がなければ、ただの、ばらばらな断片化した情報で終わってしまい、整理された知識に昇華されない。

今までもOJTでやってきたし、OJTで拾ったばらばらな情報も整理され知識になるから大丈夫、実績が証明しているという主張もあるだろう。ちょっと長い時間軸でみれば、二十世紀も後半になってやっと体系立てた研修が一般化したこと、また、それ以前は長きに渡って徒弟制度によって知識や技術が伝承されてきたことを思えば、その主張をあたまから否定する気はない。
ただ問題は時間との競争にある。一人前のエンジニア、あるいは営業マンを養成するのにOJTで五年、六年かかる企業と、体系だった研修で同程度の人材を二、三年で輩出する企業のどちらが市場で優位に立つ可能性が高いか?問うまでもない。

体系立てた基礎知識の習得を目的として研修を実施するには、大変な労力と時間がかかる。しかし、この労を、時間を惜しんで研修なしで、即OJTで基礎知識をも習得しろというのは、体系立てた研修を提供しなければならない側の責任放棄に他ならない。 責任放棄がクレームや事故につながることを考えれば、責任放棄した企業の社内の問題にとどまらずに社会の問題になる可能性がある。
2017/6/4