翻訳屋に(23)―やっかみ

我孫子の工場で働いている人たちのほとんどが、都心とは反対方向に住んでいた。従業員には兼業農家の人も多く、我孫子に来るには自動車でなければという人たちや、我孫子まででてくるのがやっとという人たちだった。
我孫子駅から工場まで歩いて十分もかからない。常磐線に乗ってしまえば上野まで三十分かそこら。我孫子辺りや大利根を越えて取手やその先に住んでいる人たちも、小一時間あれば都心にでれる。通勤の便はいい。東京にでれる人はでてしまう。この便のよさが、工場で働いている人たちの文化というのか関心や志向と都心で働いている人たちと生活感覚との違いを大きなものにする。
東京生まれの東京育ちで学園紛争を抜けてきたものには、まさかこれほどまで違うかという文化だった。その違いは実際に遭遇してみないとわからない。入社して数ヶ月も経たないうちに、周囲の人たちとの違いに、大げさではなくカルチャーショックで精神的にまいってしまった。眠れなくなって開業医だった父親に睡眠薬をもらっていた。

オイルショック以降、国内市場の成長がみこめないなか、海外市場の仕事が増えてきた。現場の作業者が展示会やら機械の据付で海外に出張することが一騒ぎだった時代ではなくなっていた。それでも時代が人々の意識の、そして行動の違いを生み出すには時間がかかるのだろう、千人以上が働いていた本社工場なのに、夕方英会話の学校にという人はいなかった。
各駅停車の千代田線でも二駅先の柏に行けば、英会話学校の一つや二つあったろうが、多少なりともしっかりした学校と思えば都心まで出なければならない。自動車通勤している人たちにも、もっと奥の在から通勤している人たちにとっても、仕事を終えてから都心までは苦しい。女性社員のなかには英文科卒業の人たちもいたが、就職してからも続けて勉強しようとしている人たちはいなかった。通い始めても、よほどの気持ちをしっかりもたないと、続かない。

技術研究所で開発した試作機をシカゴショー(工作機械の展示会)に出展するために、試作課の三十代半ばすぎの係長がアメリカに出張した。展示会が終わったあと、ニューヨーク支社によって、ひと月ほどで帰国した。アメリカ出張がいい意味でのカルチャーショックだったらしく、研究所内のあちこちで土産話でもちきりだった。
それから一年ほどして、毎月発行されている社内報の片隅に、係長が英検の三級に合格したという記事が載っていた。工業高校出でのノンキャリアが、残業つづきの毎日なかで独習した成果だった。それを社員の意識向上を目的として会社がプロパガンダに使った。係長の人柄からして、社内報には本人が望んだことでではない。ただ、それにしても英検の三級。英語を一所懸命と思ってる子供なら、中学校で二級というのもいる。
上野から三十分かそこらなのに、海外が遠いという以上に都心が遠いい本社工場。そんなところから、週に二日都心の英会話学校に通い続けている駐在員崩れがいた。

英語に限らず、何かを習得しようとしても習得できないかもしれない。向上していきそうな気配を感じられないと、継続する気持ちがなえて途中で止めてしまう。なんどか似たような経験をすると、したほうがいいと思っても、また途中で終わるのではないかという負の経験が顔をだす。やっても、どうせだめなのだからと始めてみようという気持ちにさえなれない。

そのなれない気持ちが沈殿して捻られて歪んで発酵して、こりもせずに習得しようとしている人の姿勢をやっかみの気持ちでしかみれなくなってしまう人がいる。なにをしてんだと口に出すのもいるし、口には出さないとしても、俗ないいかたでいえば、がんばっている人を馬鹿にしてみている。同じような気持ちのが何人が集まると、集団の文化のようになって、実らないかもしれない努力を続けている人を集団で見下し、ときは残業を指示したりして邪魔するようになる。

将来のことをいくら考えても、準備できることは限られている。それでも自分なりに将来を考えて、努力する以外にできることはない。もう一つの選択肢はどっちみちだめなのだし、金も時間ももったいないと、何もしないことだろう。何もしないで、五年十年たって、あのとき、もししていれば、続けていればという悔いだけは残したくない。たとえ、いくらやり続けても、ものにならなかったにしても、やるだけやったのだからという諦めもつく。何もしないで後になってでは諦めるにも諦められない。残るのは悔いだけ。悔のない人生などありっこないにしても、やるだけやったじゃないかという人生にしたい。
2017/3/19