翻訳屋に(25)―トライアルと禁じ手

翻訳は技術関係の書類に限定されてはいるが、製造業が主体の先進国日本、技術の領域は恐ろしく広い。翻訳会社として成長しようと思えば、扱う技術領域を広げたい。ところが、日本語と英語でどれほどの知識があるにせよ、すべての領域でクライアントを満足し得る仕事ができる翻訳者はいない。この領域、あの領域を得意とする翻訳者をいくらかかえていても、産業構造もそこで活用されている技術も、抱えている翻訳者の能力を超えて、多様という言葉では言いあらわせないほど広く奥深い。

翻訳会社としては、自社の翻訳能力の限界を超えてでも仕事をとりに出ていく。ただもてる能力の範疇をあまりに超えた仕事はクレームになる可能性がある。新規受注に走り回らなければならない営業マンとしてはクレームだけは避けたい。顧客からクレームがつくと、後処理に時間をとられて営業活動に支障がでる。売り上げを求めれば、クレームの可能性を心配しながらも、仕事を選んでいられない。クライアントから、「これ、お願いできませんか?」といわれれば、多少の危険があったところで、「はい、ありがとうございます」といって事務所に持ち帰る。

営業マンと上司に翻訳部の管理者で、どの翻訳者に回そうかと候補を探す。ところが、仕事のできる翻訳者は常に仕事をかかえて忙しい。できない翻訳者はその反対で、仕事を待っている。この状況の違いが両者の仕事に対する態度を極端なものにする。できない翻訳者に限って、なんでも翻訳できるという。たしかに日本語から英語に字面で置き換えるだけなら、どのような領域の翻訳?でもこなせる。日本語でそうかいてあったから、辞書には訳語がそうのっていたから、そう訳したのであって、翻訳としてはきちんとした仕事をしていると、考えているし、そう主張する。

できる翻訳者は、依頼された書類が自分の知識の領域か、その自然延長線の領域でなければ、仕事を請けない。よく知らない領域の仕事は、調べることが多すぎて、生産性は落ちるし、翻訳したものの質を保証しきれないと依頼を断る。断っても、次の仕事が回ってこなくなることなどありえない、と実体験から思っている。一方、できない翻訳者は回ってきた翻訳を断れば、この次いつになったら仕事がまわってくるかわからないという、これも実体験からの恐怖もあって、流れてくるものなら何でも引き請けようとする。

大事にしたい仕事なのだが、任せられる翻訳者は何人もいない。「ありがとうございます」といって安請けしてきた営業マンの立場も、できない翻訳者に近い。大口の固定客を持っていれば、特定の領域の似たような翻訳がコンスタントに流れてくるが、そんなクライアントをもっていない営業マンにしてみれば、せっかくクライアントから次につながる仕事をもってきたのに、できる翻訳者をアサインしてもらわなければ、……できる翻訳者はベテラン営業マンの専属じゃないだろうと文句の一言も言いたくなる。

会社としても新規クライアントからのトライアルをなんとかしたい。トライアルで評価してもらえれば、数百ページはくだらない注文をとれるし、後も続く。ところが、安心して任せられる翻訳者は当分先にならないと空かない。ここで翻訳会社が禁じ手を使う。仕事で手一杯の翻訳者に無理を言って一日二日空けてもらって、トライアルの五、六ページを翻訳してもらう。ベテランのなかには、そんな依頼を受け付けない翻訳者もいるが、二年経ってもまだまだ駆け出し、依頼がトライアルであることに気がつかないことも多かった。

翻訳者になれるかどうがわからないのに雇ってもらって、勉強させていただいてきた負い目がある。仕事のはかはいかないが、二年目には、仕事の質ということではもっとも信頼される翻訳者になっていた。いざとなれば別の翻訳会社に転職もできるベテラン翻訳者とは立場が違う。どんなに仕事が詰まっていても、頼まれればいやとは言えない。私生活の自由な時間を切り詰めてでも、なんとかしていた。

トライアルでご同業との質の違いを実証して、正式に翻訳の注文を頂戴してくるのはいいが、できる翻訳者が空いていないことに変わりはない。翻訳の質を多少落としてでも、納期は守らなければならない。どうしてもあぶなっかしい翻訳者の任せるしかない。普通のクライアントなら、トライアルの翻訳をした翻訳者が訳したのではないことくらい、一ページも読めばわかる。

翻訳の納期があるのと同じように、クライアントにも取扱説明書や保守説明書の完成の日程がある。日程に余裕があれば、翻訳会社にこの翻訳では受けられないと、やり直しを要求することもできるが、どこも普通日程がつまっていて、その可能性はほとんどない。翻訳会社の営業にクレームをつけたにしても、質の悪い翻訳をクライアントが手直しして、なんとか使える書類に仕上げるしかない。その作業の負荷がクライアントの許容範囲を大きく超えれば、翻訳料金を払わないという強硬手段に訴えることもある。
クライアントの多くが、外注の翻訳会社の質になんども痛い目にあってきて、この程度なら、文句の一言二言いって泣き寝入りするのがほとんどで、その泣き寝入りで多くの翻訳会社が碌を食んでいるといっても言いすぎではない。

クライアントの日程に余裕があれば、翻訳のやり直しを要求される。
クレームで戻ってきた翻訳の手直しを何度も求められた。数行読んで、誰がこんな翻訳をしたのだとあきれた。手直しできるような代物ではない。はじめから全部翻訳し直すしかない。なかにはトライアルをしたものがあった。なんにしても体は一つ、一日二十四時間、できることまでしかできない。
2017/4/2