翻訳屋に(27)―できるだけ原書で

日本語で書かれた技術資料を英語に翻訳することで禄を食むものにとって、参考書や資料は、日本語の原書(日本語の本)、英語の原書(英語の本)、英語から日本語に翻訳された翻訳本の三種類に分類される。英語をつかって飯を食ってはいても、英語はしょせん勉強して身につけた外国語。どうしても読むのにかかる。できれば日本の本だけですませたいが、英語の本でないと得られない知識がある。そこに翻訳本の存在価値がある。それでも、英語の本では時間がかかって間に合わない、即ちゃちな付け刃がほしいときでもなければ翻訳本には手をださないようにしてきた。

技術知識の吸収を目的としているのであれば、日本語の本で十分な場合もある。「もある」としなければならないのが寂しいが、日本の現状として認めるしかない。国際規格にまでなっている仕様でも、日本のメーカが差別化を図ろうとしてか、技術上の限界なのか製品として実現されているものは、各社各様のことがある。そればかりか、大きな書店にいっても、並んでいる専門書(?)には、それぞれのメーカの周囲にいることで禄を食んでいる著者(?)の、それぞれの製品の説明が載っているだけで、その製品化されたものを一般化するだけの知識や意思があるようには見えない。

一例としてPLC(Programmable Logic Controller)の解説本を見てみれば、どれもこれも日本市場を寡占している三菱電機かオムロンの特定の製品の仕様を、これがPLCであるとして、その製品の使い方を説明しているに過ぎない。二千円を超えることはめったにないが、内容は金を払ってまでして読むものではない。製品を仕事で使う人たちなら、取扱説明書かプログラミングマニュアルの類を読めば事足りる。ただ説明書の部数が足りないから、若い人たちや立場の弱い人たちは事務所にある説明書を勉強のために占有できない。それで、書店で入門なんとかだとか、わかりやすい何とかという副題のついた、いってみればサードパーティの取扱説明書やプログラミングマニュアルを購入することになる。

買ってきた本にはPLCとは何なのかということは書いていない。あるメーカのある製品の使い方までで、知識としてはエンジニアが必要とするものではなく、テクニシャン(職工さん)レベルのものでしかない。さらにメーカの技術的限界――世界の大手メーカではそんなもの数十年前に解決していることを日本のメーカが自らの遅れを公知するはずもなく、恥ずかしげもなく、これがPLCであるとして書いてある。制御プラットフォームを提供するメーカの技術的な遅れが、そのままその制御プラットフォームを使用する人のたちの技術的遅れを生んできた。

この日本語の本の欠陥を補うには、英語で書かれたEngineer向けの本を読まなければならない。基礎知識として習得するためで、時間があるときはいいが、急いでいて翻訳本があるとつい手をだしてしまう。翻訳本を読んでいって、途中でがっかりしだして、がっかりを何度も味わうと、腹が立ってくることがある。
そこには翻訳に付きまとう本質的な問題がある。まず翻訳した人が技術に疎すぎる。こんなことありえないと「常識」で思う。そう思うからこそ、そこに気がつくと、だまされた気がしてくる。国際規格になっている知識までならそこそこ知っているようだが、欧米の先進技術の領域になると、その領域で実務をしている人たちしか知りえない知識がある。

二つ目の問題は、技術情報に限ったことではない、翻訳の宿痾の問題で、翻訳者が日本語にしきれていないので、何度か読み返さないと意味のつかめない文章が多い。翻訳はどうして原文に引きずられる。意訳する権限を与えられていないこともあるのだろうが、なんとも読みづらい。読み終わっても、何を読んだのか頭に残っていないことすらある。

あるとき、第一章はしっかりしていて、わかり易かったのに、第二章からは下訳にだしたとしか考えられないひどい日本語に閉口して、原書を取り寄せたことがある。原書を読むとなると時間がかかる。それでも、読み間違いは誰のせいでもなく自分の責任と割り切れる。ところが翻訳過程で起きた読み間違いや、わかりにくい日本語で誤解する可能性は自分の能力の外にあって、どうしようもない。

自分の能力の限界で理解しえないのは、しょうがないとあきらめられるが、どこかのだれかの能力の限界、しばしば能力というよりずさんな仕事のせいで分からないのは困る。読むのにかかる時間をおしてでも、できるだけ原書で読むことになる。
2017/4/16