自由業―所詮独りの手内職(改版1)

名門とうたわれた工作機械メーカに就職したはいいが、戦前をひきずった社風になじめなかった。十年経ったときには海外からのクレーム処理の便利屋になっていた。会社にしがみついたところで先の知れた高専出のノンキャリア。ニューヨークに三年駐在したことがあるというだけで、三十過ぎてもなにもない。学歴も年齢も人種もなにも関係のない、自分の能力だけで生きていく自由業にあこがれていた。技術屋になりそこなって将来があるとも思えない状況を何とかしなければと悩んでいたときに、手を差し伸べてくれたのが技術書類専門の翻訳会社だった。

中学でも高専でも、就職してからも英語は嫌いだったし勉強もしなかった。技術屋にとは思ったが、まさか翻訳者になるなど考えたこともなかった。だめならだめでしょうがない、やれるだけはやってみようと見習い翻訳者として雇ってもらった。巷の多くのことが、ちょっとした、ひょんなきっかけから生まれてくるのだろうが、翻訳者なったのもその類のきっかけのおかげだった。

右も左も分からずに不安だらけだったのが、二年も過ぎたころには、多少の思い上がりもあって、メカトロ系ならオレに任せろと、一端の翻訳者になっていた(と思う)。もう見習いのころの切羽詰った緊張感も薄れて、第三者の目で翻訳という仕事をみる余裕がでてくる。いくらもしないうちに漠然としていた翻訳という仕事の限界がはっきりしてきて、どこかで何かに転進しなければと思いだした。

「隣の芝は青く見える」というが、工作機械の技術屋になりそこなった者の目には、翻訳屋が多少くすんでカビくさそうな気がしないでもないが、贔屓目なしで青かった。テレビドラマを見ていると、サラリーマンが勤務時間中に喫茶店のようなところでお茶を飲んでいるシーンがある。脚本を書く人たちの経験や知識の限界と視聴者が見たいと思っていることが一致して、そんなシーンが多いのだろうが、工場勤務をしていたとき、なぜそんな自由というのか余裕があるのかわからなかった。

工場では朝出勤したら最後、「出張命令書」か「早退承認」などの許可がなければ定時前に工場から出られない。工場はある意味、施設のようなところで、休み時間も決められている。仕事の区切りがいいからとか、ちょっと疲れたからということで一服にはならない。疲れていようがいまいが、仕事の都合にも関係なく、時間になったら休みをとらなければならない。
規律正しくということなのだが、「規律」とはいったい何なのか、なんのためなのか、「正しく」はいいが、いったい何をもってして正しいというのか、考えても答えがあるようには思えない。工場で働くと、流れてゆく日常に何の疑問ももたなくなる。慣れといえば聞こえはいいが、大勢に混じって流されることを当たり前と思うというより、当たり前かどうかなどという疑問がありえるということさえ考えなくなる。
大勢に流されているということを自覚することもなく、大勢の一粒になっている先輩や年配者の日常を見て、一緒に一粒なるのが怖かった。なってしまえば平和な生活なのだろうが、そんな生活は厭だったし、そもそもそんな生活をおくれるほど器用じゃない。

翻訳の世界には、工作機械メーカとは違って時間の自由がある。大勢などあるのかないのか気にしようもなく、ただの独立した一人の個人になる。そこでは会社や同僚との間に、いいの悪いのではなく、事実として埋めようのない距離がある。年齢や経験で一目おくにしても、翻訳者同士は基本的に対等。しがらみのない、上下関係の希薄な人間関係しかない。

いつでもどこでも似たようなものだと思うが、困ったときに面倒見のいい人もいればよくない人もいる。貴重なアドバイスをしてくれる人もいるし、がんばれと声援のような話をしてくれる人もいる。でも最後は自分しかない。自分の能力と努力で自分の仕事に責任をもたなければならない。極端な例でいえば、ボクサーのようなもので、トレーナーもセコンドも後援者もいるし篤いファンもいる。周囲の人たちの支援でがんばらせて頂いているにしても、最後はパンツ一丁リングの上。自分しかいない。

この最後は自分しかいないという緊張が仕事も含めて人生を有意義なものにする。有意義まではいい。問題は翻訳では何をしたところで、自分独りの個人の能力の限界でできることしかできない。そこには普通どこにでもある自分の能力を補完してくれる仕掛けもなければ、増幅してくれる組織もない。
しがらみのない世界とは、自分の能力を頼りに自分で生きてゆくということに他ならない。どんなに優れた翻訳者でも独りでできることまでしかできない。自分の目の届くところまで、手を伸ばしに伸ばしても、その手の届くところまでのことしかできない。

何かもっと価値や意味のあることをと思っても、個人でできることは知れている。いくら自由と思ったところで、社会から隔絶して生きていいけるわけでもない。しがらみを嫌って距離をあけてはみたものの、人や組織との関係抜きではしたいことも、しなければならないことも、そもそもそんなことを考えることにすら意味のない生活になる。よくも悪くも自分の力で、力のおよぶ限りで生きていく。そこで、およぶ限りを伸ばそうとすれば、喫茶店でお茶なんかすすってる余裕なんかありゃしない。それが夢にまでみた自由業だった。
2019/7/21