奴隷と君主の重層社会(改版1)

あちこち会社を渡り歩いていると、会えてよかったと思える人にも会えるが、こんなのがいるのかと驚くことも多い。中には存在するだけでも犯罪としか思えないのまでいる。そんな極めつけがアメリカの画像処理屋の日本支社の営業部長だった。

部下を野良犬呼ばわりしてはばからない営業部長、業務上の能力は一営業担当としてもゼロ。客に取り入る術もなければ、最低限の業界知識もない。人間何か一つくらい取柄があるんじゃないかと、目を皿のようにして探しても何もでてこない。何もないなかで、上に対する奴隷の卑屈さと下に対する絶対君主としての権力の乱用だけが目についた。能力もいいことばかりではないだろうから、卑屈さと権力の乱用もある種の能力といえないこともない。ナチスあたりなら、出世する人材なのかもしれない。

配下の営業マンたちに面と向かって、「お前たちは野良犬だ。野良犬一匹一匹にメシを漁ってくるテリトリをくれてやる。えさ(注文)をとってこい」と傲慢に言い放って平然としていた。「野良犬のような強靭な意志で、しっかり営業活動に励め」などという、それもパワハラになるだろうが、叱咤激励とは違う。
毎日、営業マン一人ひとりの携帯電話に数回メッセージを残していた。内容にはいくつかのパターンがあったが、要旨は同じで、「今日の受注はどうした?そろそろ注文を入れろ。報告待ってますー」だった。オウムにでもできそうなことだが、空っぽの頭でできることはそれしかなかった。

市場の理解もなく、製品や技術に関する知識など気にもしない。管理職として率いる営業部隊に営業戦略や方針、営業トップとしてしなければならないことが山ほどあるのだが何もしない。そもそも何かしなければと考えることがない、努力という言葉をどこかに忘れてきてしまっていた。
職責の上の人の話しは聞いても、同等か下の立場にいる人たちの話しは聞かない。話を聞くと、絶対君主としての立場が危うくなりはしないかと恐れているかのようだった。
このような管理職がまがりなりにも務まるなど、信じられない人がいるかもしれないが、人間関係を上下関係でしかみれない体育会系が棲息している企業文化の下では、パワーハラで訴えられかねないことが毎日起きている。ある程度の規模の企業であれば、どこにでも似たりよったりのが一人や二人はいる。

権力の乱用に走る人で業務上の能力がある人はいない。管理職は一人業務ではない。業務を遂行するには部下も含め関係者との意思疎通が欠かせない。意思疎通には、どのようなことであれ、論理的に相手に説明して説得する能力が欠かせない。権力の乱用に走る人たちにはその能力がない。ないから、多少でもその能力を持ち合わせた人に論理で説得される側にまわるケースが多くなる。論理を振り回す側に常に理があるわけではない。しかし、ない場合でも相手を論理的に説得できない。いきおい、フラストレーションが溜まる。溜まったフラストレーションを発散するためにも、権力で叩ける弱者を見つけては叩くことになる。己の権力を誇示できれば、相手はなんでもいい。外注先だったり、居酒屋の仲居さんのこともあれば、路地裏のノラ猫でもかまわない。

権力を振るってフラストレーションを発散させても、フラストレーションの本来の原因を解決すべく己の能力を向上する努力にはならない。不幸にして能力を向上する努力をする習慣を身に付ける、あるいは学ばなければならないことを学ぶ機会を失っている。彼らの努力とは上に奴隷として「おもねる」ことでしかない。
そのような人たちの存在価値は、下の者に奴隷として「おもねられる」ことに個人的な快感を持つ上がいる限りなくならない。業務遂行の能力がないから、間違っても上の人間を退ける、追い越す可能性がない。上の者は安心して汚れ仕事でも、業務以外の個人的な雑務でもさせることができる奴隷として重宝する。実はその上の者もさらにその上の者に対して同じように「おもねる」奴隷のような立場にいる。まるで一端にN極(君主)、反対側にS極(奴隷)の磁石がくっつき合うかのように痴れ者の集団ができあがる。

誰がやってもたいした違いがなかった高度成長期なら、「おもねる人たち」の重層でもなんとでもなった。まさか市場のグローバル化が進み、競争が激しくなる一方の市場でも旧来と同じように奴隷として「おもねる」、そして絶対君主として「権力の乱用」の重層でなんとでもなると思っているわけじゃないだろうが、カビかコケのように生命力だけは旺盛でなくならない。権力の乱用とそれにおもねる人の性(さが)がその生命力を支えている。
2017/9/3