翻訳屋に(41)―ビジネス傭兵へのきっかけ

CNCの開発要求仕様書の翻訳をしたクライアントから電話がかかってきた。翻訳するにも翻訳原稿が書きあがっていないという仕事だったから、抜けあったか追加がでて、また翻訳の依頼だろうと思って電話を取った。一度仕事して、用語も含めて勝手もわかってる。おいしいリピート仕事だ。でも何でオレに?仕事の依頼だったら、担当営業に電話で、こっちに直はない。またバタバタして時間がないのに、担当営業が外出でもしていて、先に話しだけでもということだろが、できれば話したくない。

年末に仕事で行ったときの嫌な感じを引きずっていた。よくいるタイプで、能力以上に見せようとしてだろうが、口ぶりから格好をつけた卑しさがこぼれていた。事務的な話し方に聞こえないこともないが、言葉の節々に人を見下した引っ掛かりがあった。初めて会って二言三言で嫌な感じ、オレにじゃないよなと思いながら、じゃあ翻訳という仕事に対してなのか?それとも付き合ってきた翻訳者からなのか、どっちにしても遠慮したい。声を聞くだけでも嫌な気持ちになる。

営業に話せばいいものをと思いながら話を聞いた。なんでそんな口調でしかものを言えないのかという言い方で、「部長が会いたいといっているので、一度来てもらえませんでしょうか」という。あの部長が会いたいって?何で?断られるのを承知で、断られても傷つかないように、相手にとっても負担にならないように、つとめて軽い口調で、雇わないかとは訊いたが、訊かなきゃよかったという返事をされて、あらためて会う理由があるとも思えない。
一度だけだが、おいしい仕事をさせてもらったクライアント、会う理由など何もないが、会いたいといわれて、会いたくないともいえない。また翻訳ですかと訊いたが、翻訳ではないという。訪問の目的を訊いたが、それは部長にあって直に訊いてほしいというだけで埒が明かない。それにしても、何様だと思ってるんだ。会いたいなら部下に電話させるんじゃなくて、自分でしてくるもんだろう、と思ってはみても、そこは外注の悲しさ、相手に合わせて都合のいい日時を決めた。

年明けに池袋から京橋に引っ越していた。京橋駅から徒歩五分くらい、宝町駅なら駅の真上にビルの八階だといわれて、何の目的かもわからずに行った。受付に入ったとたん、妙な活気に、違う会社に来てしまったのかと思った。池袋の事務所はどことなくじとっとして暗かった。事務所を移転しても、そこで働いている人たちの覇気のなさがどうなるとも思えないが、あちこちから若い人たちの活気のある声がもれてくる。新卒の集団だった。はつらつとした声があるだけも活気が生まれる。

電話してきた担当者に内線をかけて待っていたら、斜視の関西弁の部長ではなく、恰幅のいい人がでてきた。年明けにマーケティングの部長として雇われた人だった。前任の部長と好対照の、ざっくばらんな東京人だった。部屋に入るなり、いつから来れると訊かれた。あまりに唐突で、何を訊かれたのはピンとこなかった。組織図を見せたほうが手っ取り早いと思ったのだろう、マーケティングの組織図を見せられた。部長をいれても総勢八人の小さな所帯で、部長がいて課長がいて、その下に主任が二人書かれていた。そこに自分の名前が()付きで書かれているのを見て、そういうことだったのだと知った。言葉はいらない。

いつでもどこでもそうだが、新任の役職の人の話は似たようなもので、業界を知らなければ知らないほど夢がある。夢で終わる夢でも追いかけようとする夢がある分、話は明るい。話の節々から、そこそこの大きさの商社の営業畑出の人なのがわかる。何があるわけでもなさそうだが、前任の部長と違って覇気がある。事務所が明るいのは七、八十人しかいないところに三十名近い新卒が入ってきたからだった。業界違いの人に率いられた組織の三分の一が新卒、それだけでも機能するとは思えない。

とんでもないところに足を踏み入れることになるかもしれないが、断る理由もない。このまま巷の翻訳屋を続けても飯は食っていける。ただ、一人の個人の努力でできる勉強には限りがあるし、独りの内職仕事の限界をどうしたものかと思っていたところに、降って湧いたような話、乗らない手はない。二つ返事で「いつから来ましょうか?」と訊いた。
抱えていた仕事をかたづけるのに、どうしても一ヶ月はかかる。ゴールデンウィークの前に来て、すぐ休みというのもなんだからゴールデンウィーク明けにしようという話になった。

クライアントはアメリカの産業用制御装置の大手メーカと日本の自動車電装部品メーカの合弁だった。日本における知名度からすれば、電装部品メーカの存在は圧倒的で、アメリカの親会社など、業界のそれも海外に明るい人でなければ名前も聞いたこともない。ただ、ニューヨークに駐在していたときに評判を聞いていて、畏敬の念があった。その反動でもないが、日本の電装部品メーカは大きいだけで、たかが自動車部品メーカにすぎないじゃないかと思っていた。

初めての外資、それも機械屋ではなく制御屋。勤まるのか心配だった。具体的な仕事のことを部長に訊いても、中身のある話は返ってこなかった。ただ明るいだけの、つかみどころのない話を聞いて、何をするのか、させられるのかわからない。期待されることをできるのか?いつもの能天気で、どうにでもなる。どうにもならなかったとしても、翻訳屋をやっていては経験できないことを経験できるし、勉強させてもらえる。
給料なんか二の次だった。翻訳屋として得ていた収入に近いものがあればかまいやしない。「つぎの未知なる世界へ」だった。

左前になった翻訳会社ではいろいろな人たちにお世話なった。沈むであろう船の最後を見届けようとは思っていたが、せっかく目の前に転がってきたチャンスを逃すわけにもいかない。お世話になった方々には申し訳ないが、つぎにゆくことにした。会社を辞めるときは、いつも「清々した気持ち」があるが、翻訳会社を辞めたときだけは後ろ髪を引かれる思いだった。戦友を置き去りにして下船するような、後ろめたさがあった。

このアメリカの会社でマーケティングの基礎から応用、さらに製品開発から販売政策や組織論にリーダーシップにいたるまでなにからなにまで教えられた。
翻訳を通して、努力は孤独な作業の継続であること、そして、何をしても最後は自分ひとり、したことに対する責任をとるもの自分であることを学んだ。八十六年の春、三十半ばにして転がってきた人生の賭けだった。
2017/8/6