ヒラメのような管理職

11月17日付け朝日新聞に「日産 人不足認識せず」と題した記事があった。書き出しをコピーする。「日産自動車の無資格検査問題で、日産が最終報告書を17日に国土交通省に提出する。生産拡大で多くの工場で検査要員が不足したが、経営陣は認識せず、経営計画を推し進めて現場に無理が生じた」

記事にざっと目を通して何を分かって書いているのかとあきれた。事実の一端を伝えるだけの記事ということなのだろうが、何をいまさらの感が強い。生産現場の荒廃は昨日今日始まったことではない。日産に限らず多くの生産現場はこれ以上荒廃が進んだら品質がどうのというのとは別の次元――品質を問うことに意味がなくなるところにまできている。「Made in Japan」が高品質を意味したのが過去の話になりつつある。

製造業の経営トップが製造現場(下)には興味がないし関心もない。知ろうとしない、あるいは知りえる能力がないから現場でなにが起きているのか知りえるはずがない。多少なりとも状況を見聞きしてきたものには、すべての関係者は知っていたはずで、知らない、あるいは知らなかったといっているのは、上しか見えない頭の乱視の経営者だけとしか思えない。
ただ検査資格保持者が足りないからルノー(上)から要求されている増産をできないとルノーに言ったら、言った社長(下)が解任されて、「できます」という人が社長に据えられるだけだろう。

製造現場の荒廃は製造現場の人たちの無責任や無関心が招いたわけではない。誰もがいい仕事をしたいと思っていても、いい仕事をしようのない環境と文化が根付いてしまっている。原因は発展途上国との価格競争と実の生産性の向上がないなかで、闇雲なコストダウン――今の利益の捻出に走った(走らざるをえない)経営政策にある。グローバル化した経済体系のもとで、コストダウンを優先すれば、それまでやってきたような丁寧な仕事はしたくてもできない。滅私奉公や個人の犠牲でどうにかなるような状態は遠の昔にすぎている。

基本的に資本主義経済においては何を差し置いても利益を計上しなければならない。利益を計上しなければ経営を継続できない。たとえ企業や組織として残りえたとしても、経営者としては無能の烙印を押されて解任される。新自由主義の旗印を掲げた国際金融の支配が強まって、今期の利益が問題とされ中長期の利益などと悠長なこといってはいられなくなった。

経営者であろうと末端の勤労者であろうと、労働を評価するのは、組織上上に位置する人たちで、配下の人たちの評価はいいにこしたことはないが、その人たちの評価によって自分たちの立場が保たれるわけでもなければ、昇進するわけでもない。同僚や配下の人たちの目は気にはなっても、評価する上の人(たち)の評価を気にして、まるでヒラメのように両目を見開いて上を見ていなければ、組織のなかで生き残るのは難しい。課長や部長に役員や社長が従業員の選挙で選ばれたなどというのは、戦後大成建設であったらしいが、聞いたことがない。
日産の日本の社長や経営陣を評価するのはルノーの経営陣で、日本の工場で働いている人たちではない。ルノーの経営陣や社長は配下の業績が問われる。ルノーの社長も含めた経営陣を留任させるか、解雇するかを決めるのはルノーの所有者である株主、しばし金融界である。

一つ例を挙げて状況を考えてみる。今、ルノー日産でリッターカー(排気量千CC)の乗用車の増産を検討しているとしよう。増産をどの工場でするか?フランスか日本かブラジルかEUのどこにするか……。ルノー経営陣にしてみれば、カントリーリスクや為替リスクなどさまざまな要素を検討したところで、キーはどこで生産したら総合的に最も安く(最大の利益)できるかでしかない。判断基準は簡単で、小学生の四五年生でもわかる。安けりゃ、どこでもかまわない。

ルノーの経営陣は、候補とする製造拠点から増産プロジェクトへの応札をさせればいいだけで、それぞれの製造拠点の能力や多岐に渡る懸案要素などを自分たちで調査というような面倒なことはしない。所望の性能や機能を満たしたリッターカーをもっとも安く製造できると応札してきた製造拠点が受注する。具体的なことはすべて下の当事者に任せて(押し付けて)、自分たちは利益という上納金を受けとる権利があるというのは今も昔も変わらない。

人件費や規制の多い日本の製造拠点が堅実なモノ造りを目指して応札していたら、プロジェクトを請け負えずに、最終的には仕事がなくなる。外注先に無理をいって、契約社員や派遣社員に従業員のコストでもなんでも削りに削らなければ増産プロジェクトを受注できない。多国籍化した企業が特別ということではない。どこでも自社でどこまで製造するのか、どこまでどこに外注するのか、誰に何をまかせれば利益を最大化できるのかが判断基準になっている。そこで利益をあげるということは、誰か(従業員や下請や納入業者……)の利益を自社に自分たちに付け替えることに他ならない。

企業とヤクザを同じにするなとしかられそうだが、現場が生み出す「利益」を「みかじめ料」とみれば両者には似たような構造がある。景気が悪くて、人件費が高騰して、原油価格が、税金が……、なんでもいいが、まっとうな理由をあげて「みかじめ料」をまけてくれとヤクザに頼んだところで安くしてくれやしない。同じように経営陣(上)は「利益」という「みかじめ料」がきちんとあがってくる限り、現場(下)がどうなったところでかまいやしない。そんなことにいちいち興味をもっていたら経営できない。誰も「みかじめ料」を払えない理由など聞く耳を持たない。
日産はルノーに「みかじめ料」を献上しなければならない。ルノーはルノーで、その上の金融機関に利子や配当という「みかじめ料」を上納しなければならない。これができなければ経営者を解任される。

経営陣は、上からの要求を満たすことで手一杯で、ああだのこうだのいってくる下は早々に切って、おとなしくなんでも「はい、はい」ということを聞くところに仕事を回せばいいとしか考えちゃいない。下は下で「はい、はい」といい続けなければ、左遷か解雇がまっている。外注であれば仕事を切られる。

これが数値化した管理社会における企業経営とそこで生息する経営陣の実態で、誰も彼もがヒラメのように両目をしっかり見開いて上を見て、今も昔も変わらぬ上意下達。体系は昔とたいして変わらないが、今は強度と速度が違う。コンピュータが進化して、人がコンピュータを使うのではなくコンピュータに使われて、というような生易しい状態ではなくなった。コンピュータの能力が人間の能力をはるかに超えてしまって誰も追いつけない。
そこでそれなりの立場にいようとすれば、ヒラメをように両目で上をみて下の人たちの頭を土足で踏みつけて、誰かを使いつぶすことになりかねない。誰が使いつぶされ、誰が生き残るのか?愚問だろう。チャップリンの『モダン・タイムス』、まだまだお笑いですませる、のんびりしたよき時代だった。
2017/12/31