翻訳屋に(33)―訪問者

つとめて仕事は自宅に持ち帰らないようにしていたが、数百ページの仕事を抱えると事務所との通勤時間がもったいなくなる。通勤時間を節約するのはいいが、自宅で作業しだすと、仕事と私生活のけじめがつかなくなる。体力の続く限り一日中――何か食べているときとトイレか風呂と寝ているとき以外は仕事して、朝昼夜の感覚がずれてしまう。夜二時三時過ぎても眠くならいようにとコーヒーや紅茶を飲んで、空が白み始めたころもうこれ以上はダメとなってベッドに入る。目が覚めたら、午後三時なんて生活が続く。一風呂あびて、何か食べに表にでて、スーパーによって気分転換に口にするものと飲み物を買って帰ってくる。帰ってきて、また仕事を始めて、昨日と同じような生活になる。そんなことを一週間も十日も続けていると、人と話すこともなくなって、隠者のような生活になってしまう。

納期は守らなければならないし、仕事のできが自分の存在価値という気持ちから、手を抜いて字面での翻訳はできない。参考資料を片手に机に向かって悪文と格闘し続けるにしても、どこかで気分転換のスイッチをいれないとおかしくなる。肉体的にたいしたことはなくても、精神的にまいってしまう。

田無の駅から徒歩五分くらいのそんな一人暮らしのマンションに訪ねてくる人たちがいる。訪問販売の人もいれば、不動産や保険、ときには新興宗教の勧誘の人たちがくる。三十をちょっとすぎた独り者、今があるだけで将来がどうのなどと考えたこともないから、誰が来ても商売にはならない。それでも人は来る。

仕事を続けてくたびれているところに誰かがくれば、いい気晴らしの相手になる。誰でもかまいやしない。下戸でアルコールの類は置いていなかったが、気分転換のためにコーヒーや紅茶に炭酸飲料も、せんべいやチョコレートなどのちょっとつまむものも買い込んでいた。
誰かくれば、ちょうどいい、「一休みで、コーヒーでも入れようかと思っていたところだから、時間があれば上がって」と言って、リビングルームのソファを勧めた。新興宗教の人たちは部屋に上がってこなかったが、それ以外の人たちは、仕事にならなくても、一休みできればということだったのだろう。

ある夏、甲子園で高校野球のまっただなかに大手不動産屋の二人連れがきた。真夏の暑い中を歩いていたのだろう、アイスコーヒーをお代わりした。熱いコーヒーを入れるのは簡単だが、入れた熱いコーヒーを氷で冷やすのは面倒くさい。紙しか見ない、タイプライターしか叩かない翻訳なんて仕事をしていると、なにか手を使うことと思いだして、そんな手間のかかることにまで凝りだす。
二人連れの若い方が北海高校の野球部員だった。甲子園ではグラウンドに出れずに、スタンドで応援していたといっていた。三人で高校野球を見ながら世間話をしていたら、年配の人が、申し訳なさそうに「電話を借りても……」。事務所に営業経過の報告をしなければならないのでと恥ずかしそうに電話をかけた。聞こえてきた話の内容がなかせる。「今、有望なお客様のお宅におじゃまして、物件の紹介をしているところです。もう小一時間はかかりそうで……」電話を終えて「すみません」、そして三人で野球を見ていた。日も傾いてきて、涼しくなったのを見計らって二人でお礼を言いながら出て行った。

あるとき生命保険のセールスをしている同年輩の女性が来た。冷たいものならと、冷蔵庫を開けてみてもらったが、コーヒーになった。実家の関係で生命保険もなにももう入る余地などないほど入っていたから、何を聞いても客にはなれないけど、一休みするのなら、こっちも気晴らしになっていいから……。
それから一月ほど経ったある日、またその女性が来た。自宅で仕事をしていることがあっても、基本は事務所だから、いつもは自宅にいない。一月ほどの間になんどかきたけど、留守だったといっていた。そうは言われてもと思いながら、また世間話……。

三度目にはケーキをもってきた。田無の駅前のショッピングセンターの横の路地を入ったところにある小洒落たケーキ屋のものだった。コーヒーを入れて、ケーキをご馳走になったが、もしいなかったら、どうしたのだろうといらぬ心配までしてしまった。
何日か続けて自宅で作業をしていると、午後二時か三時ころに顔を出す。何度も来ているうちに、ご主人と小学校の息子二人の四人家族でご主人は建築関係の仕事で帰宅は遅いし、家族のことは二の次の人でと、家庭の愚痴まできかされるようになった。
名前も知らなければ、どこに住んでいるのかもしらない。それでもそこまで頻繁にこられると、妙な人間関係にまで発展してしまう。

勉強も仕事も一人にならないとできないが、隠者の生活をするほどの精神的な強さは持ち合わせていない。いろいろな人が、仕事や個人的なわけがあってのことだろうが、人恋しくなった翻訳者にとっては、気晴らしとそれ以上のことを提供してくれた。
2017/5/28