翻訳屋に(35)―畑違い

市場が変わってゆくなかで、無理(チャレンジ)をせずに従来の仕事の範疇にとどまっていたら維持すら難しい。会社は事業を拡大すべく、今までの範疇を越える無理をする。会社の無理が営業の背中を押す。営業は成績を求めて多少の無理をしてでも注文を取ろうとする。何がどれほど無理なのかは状況しだいのこともあるし、すべき無理なのか、してはならない無理なのかの判断は難しい。一言に無理といっても、それが請けきれない仕事量や納期のこともあれば、価格のこともある。翻訳者の立場で無理といえば納期よりなにより技術領域だった。

ベテラン翻訳者で、自分の領域を会社と営業部隊に認知されていれば、領域を大きく超えた仕事を依頼されることはない。ところが特定の領域をもたずに字面でしか翻訳できない翻訳者や翻訳者になれるかどうかという新米は、何を依頼されても断りきれない。もし断ったら、次の話がくるのか、くるとしてもいつになるのか心配で、仕事を選ぶ余裕がない。きたものはなんでもこなす姿勢を示し続けなければならない。

そんなことを繰り返しながら、自分の得意とする領域での実績を上げると同時にこなせる領域を増やしてゆくのだが、ときにはこれはないでしょうという類の翻訳依頼が転がってくることがある。それはベテランならなんとか翻訳するだろうというものでもない。多少無理をしてでもという会社の都合があるにしても、営業マンの常識として、そんな仕事を持ち帰ってきちゃというのがある。

泣かされた仕事のひとつにビデオゲームの画面に表示される単語というのか短い文章の翻訳があった。原稿として渡されたのは、単語や文章のリストだった。リストには「でるやいなや、ひるがえってやっつければ、ボーナス五百ポイント」「そこだ、ボーナス」「ふりかえりざまにやっつけろ」「そこだマッピー」「チョップと」……。昔の話で、うろ覚えだが、どれもゲームのストーリーと画面があるから、何が起きているのか、何をしたほうがいいのかの想像がつくもので、単語や文章らではが、とてもではないが、どう訳せばいいのか見当もつかない。日本語の特徴で主語もなければ目的語や補語もない。プレーヤを主語としていいのか、登場人物かものか何かにすべきなのかも画面を見なければ分からない。

営業に訊いてクライアントに電話した。ゲームのストーリーと画面を提供してもらえないかと頼んだが、なぜリストから翻訳できないんだと、けんもほろろで取り付く島もない。いくつもの段階の業者がからんでいて、クライアントはただの請負手配師のような口ぶりだった。しょうがないから、ビデオゲームメーカを探して電話をしたら、「あんた、なにやってんだ」「勝手に英語に翻訳するってのは、どういうことだと」……犯罪者扱いされて、あわてて電話を切った。正規のルートから外れたブローカが中古品を集めて海外に輸出しようとしていたのだろう。営業に「なんなの、この仕事」といってはみても、「なんでもいいから適当に翻訳してくれればいいから」としか言わない。そうとしか言えないのもわかるが、適当に翻訳できるくらいなら、クライアントに電話なんかしない。

あれこれ考えていて、もしかしたら、全部ではないにしてもいくつかのゲームがゲームセンターにあるかもしれないと思いついた。いきつけの新橋のゲームセンターにいって、一つだけだがみつけた。しめた、これで分かると思ったが、甘かった。百円玉を入れてゲームを始めても、すぐGame over、Insert coinになってしまう。何度かやってみたが、スコアをあげて、次のステージへなど夢のまた夢だった。

いくら百円玉を入れてもどうにもならない。ゲームを目の前にして、なすすべもない。どうしたものかと思っていたら、高校生だと思うが、ゲームをしたそうな顔をしているのがいた。ちょうどいい、「ゲーム代をだすから、スコアをあげて、ステージをアップしていってくれないか」と頼んだ。高校生、へんなオヤジが何を言ってきたんだという顔で、返事がなかった。事情を説明して、ゲームをしてもらった。しょっちゅうやってるのだろう、ステージがどんどんあがっていったが、画面の変化が早すぎて、ついてゆけない。何回かやって見せてもらって、いくつかを記憶して事務所に戻った。うろ覚えでも、そこは百聞は一見にしかずで、そこそこ納得のゆく翻訳ができた。でもそれはゲーム一つだけで、あとのいくつかのゲームは、それこそ適当にというより書けるように書いて終わりにした。

それでもビデオゲームはまだましだった。来年はイノシシ年だというので、ある銀行からイノシシの鳴き声を二十数ヶ国語に訳してくれというのがあった。インターネットもない時代、イノシシの鳴き声なんか日本語でも知らない。豚なら「ブーブー」といったところだろうが、英語で?「上野動物園にでも言って訊いて来い」って営業に言った。うちはテクニカル・サービスで技術翻訳の会社、駆け出しにしても技術翻訳者のはしくれ、動物の鳴き声はサービスの範疇にない。

いろいろなと言えば聞こえはいいが、雑多な業界の、こんなのもあるのかという書類の翻訳をして、給料もらいながら勉強させていただいた。実にありがたい話なのだが、なんでもかんでも翻訳できるわけじゃない。
2017/6/11