翻訳屋に(37)―新CNC開発へ

営業がCNC(Computerized Numerical Control)の仕様書の仕事をとってきた。ベテラン営業マンで個人的なネットワークもあるのだろうが、よくこんなものをみつけてきたもんだと驚いた。それは製品を市場投入する際に用意する仕様書ではなく、マーケティングがエンジニアリング部隊に発行する開発要求仕様書だった。物は工作機械の制御装置。市場は日本は二社、海外では五社で寡占状態。そんなところで、いまさらまっさらからの開発?にわかには信じられなかった。

大手工作機械メーカのバリバリの技術屋だった人を社内に翻訳者として抱えているとアピールしたらしい。誇大広告が恥ずかしいが、営業マンはなんとも思っていない。受注する前から「注文とれたら任せるから」と言われていた。工作機械の技術屋にはなりそこなったが、CNCは客の立場で散々使ってきた。
技術革新にともなう淘汰と寡占が、ある幅をもったにしても製品の大枠を決めてしまう。乗用車がいい例で、どのメーカのものでも基本構造や機能に大きな違いはない。工作機械もその制御装置にも同じことが言える。大手五社で世界市場を支配しているCNCは、どこも似たり寄ったりで、一社の製品を理解すれば、多少の違和感があったにしても、他社の製品もわかる。

勝手知ったるおいしい仕事、オレに任せろと言ったはいいが、それは困るという条件がついていた。クライアントから提供された書類を事務所で翻訳するのが普通だが、クライアントに出向いて翻訳することが求められていた。時間の余裕がないからというが、出向いて翻訳しても事務所でしても翻訳する手間にかわりはなし、余裕がない?何を言ってるのかと思いながら、辞書を片手にクライアントの事務所にいって驚いた。

作業環境は用意してあるからと聞いてはいたが、そこまで切羽詰っているとは想像できなかった。小部屋の片隅に机とタイプライターが置いてあるだけではなく、クライアントがチェックした訳文をその場できれいにタイプアップする派遣のタイピストまでいた。至れり尽くせりといいたいが、肝心の翻訳する日本語の原稿が数ページしかない。いつものことで、荒れた日本語だったが、書かれなければならないヒントさえあれば、間違いなく趣旨を伝えられる英文を書ける。数ページ訳して次の原稿はと思っていたら、つるつる頭の大男が部屋に入ってきた。
一瞬たじろいだ。営業から、あそこには「大きな海坊主がいて、そばにいられるだけでも怖いんだよ」と聞いていた。見た目で人を判断してはいけないと思うが、頭だけでなく、眉毛もまつ毛もないつるつるの強面、小柄ならかわいいかもしれないが、百九十センチを超えた大男、営業の言うとおりだった。

海坊主が数ページの訳文を手にとって、その場でささっと赤字で書き直してタイピストに渡した。派遣のタイピストにかかれば、タイプアップに時間という時間はかからない。いくら一所懸命翻訳したところで、海坊主のチェックとタイピストのタイプアップの速度にはかなわない。海坊主、たまに翻訳ができているかを見に来て、できていればチェックして仕事に戻るからいいが、タイピストは翻訳とチェックが終わるのを翻訳している横に黙って座って待っている。話しかけられても困るが、ただ横に座っていられるのもうっとうしい。
マーケティングの担当者は何か緊急の仕事を抱えているのだろう、たまに部屋に来ては和文原稿が書いていた。推敲する余裕がないから、書きなぐりの原稿しかでてこない。翻訳がボトルネックになるはずの作業だったが、和文原稿が仕事にならない原因で助かった。

技術翻訳の仕事は、何ページ、しばし何語(なん語=文字数)翻訳していくらという料金設定。和文原稿がでてくるのを待っていては仕事にならない。それでも朝来て、仕事にならないですからと昼過ぎに帰るわけにもゆかない。クライアントの事務所で翻訳が条件だったから、事務所に持ち帰っての仕事にしたいと申し出るのをためらって、二日目も三日目もクライアントの事務所に行った。和文原稿が間に合わないという状況が改善される様子がないことを三日かけて確認して申し込んだ。「原稿を待っている時間がもったいない」「原稿がまとまったら、取りに来てもいいし、郵送してもらってもいい」「自分の事務所での仕事にしてほしい」

後日分かったことだが、プロダクトマーケティングの担当者がバタバタしていて仕様書を書く時間がとれないまま、開発要求仕様書を英訳して米国本社に提出しなければならない期限を過ぎてしまっていた。

和文原稿を一目見て、いったい何をしようとしているのか、真意をはかりかねた。原稿は、使い慣れたCNCのプログラミングマニュアルの該当箇所を書き崩したものだった。そのCNC、製品は一流だが、マニュアル類は新機能が開発されるたびに書き足していったもので、読み難いというより読み間違いしかねないものだった。増改築を繰り返した老舗の旅館のようなもので、分かっている客でも迷子になる。そんなものを手本に、正式書類の体裁を整えるプレッシャーもあってか、通りの悪い日本語だった。CNCを使ったことのない翻訳者ではいくら読んでも、何を言っているか想像もできない。字面翻訳でも苦しい。
事務所とクライアントでの翻訳を繰り返しながら、これしかないという英文仕様書を書き上げた。プロダクトマーケティングの担当者より翻訳者の方がCNCに詳しい。それは翻訳というより、和文原稿を参考にして、これでなければならないとして書かれた英文仕様書だった。

すべての作業が完了したとき、世間話に交えてマーケティングの部長に訊いた。「こんな人間いたら重宝すると思うんですけど、いりませんか?」たかが外注の翻訳屋として見下しているのを肌で感じていたから、断られることを期待してというのも変だが、自分が傷つかないように、つとめて明るい声で軽く訊いた。
何を言ってきたかという顔をされて、関西弁の冷たい口調で、「いらない」と言われた。そうだよね、そんな運のいい星の下に生まれちゃいない。「そうですよね」「また翻訳の仕事ありましたら、担当営業に電話してください」と言って終わった。
あの程度の理解で、新機種を開発?できっこない。また切羽詰って何か言ってくるかもしれない。楽しみが一つ増えた。こういう楽しみはいくつあっても困らない。
2017/6/25