翻訳屋に(38)―良薬口に苦し

誰しも、自分の至らないところを口にされればいい気はしない。世事とわかっていても、いい話を聞けば悪い気持ちはしない。よかれと思ってアドバイスしても、おおかたは嫌なヤツだと嫌われる。だったら余計なことなど言わずに、いい話だけにしていた方がいい。
今も昔も変わらない人の人情、内心はどうであれ穏やかな人間関係を保ちたい。ただその気持ち、極端にいえば人からいい人と思われたいという俗な思いでしかない。言わなければならない、言った方が、言われた方がいいことでも言わずに場を保つことに終始したら、上っ面の付き合いまでで、人と人との信頼など生まようがない。人間関係なんてものはその程度まででいいんだといったら、人も社会もその程度で終わる。
ことさらにこと荒立てる愚は避けなければならないにしても、はっきりしなければ改善も進歩もしない。そんなぬるま湯的な人のありように誇りの響きまでもって「空気を読む」とか「空気を読めない」とか言うのを耳にすると、本来あるべき人間関係もそこから生まれる社会も表面をつくろっただけでのだらしのないものになってしまう。

エリックとセアーは、「空気を読む」ということでは好対照だった。人当たりのいいエリックに偏屈なセアー。エリックとは仕事に関係なく世間話はしても、セアーとは仕事で話さなければならなくなっても、しようとしない人たちがいた。一癖も二癖もある翻訳者でもセアーの毒気に当てられた。
セアーはセアーなりに相手の気持ちを察して話をしているつもりなのかもしれないが、自分の思いのエネルギーが強すぎてストレートな物言いになってしまう。言ってしまった後で、ちょっと言い過ぎたと気にしていることもあるし、反省らしきもしているのだが、思いからズレたことが起きると、つい強い口調で考えが口をついてでてしまう。

そんなセアーの不器用さを尻目にエリックはいつも如才ない。エリックの如才なさは、「空気を読んで」のものではない。考えや意見といえるほどのものがないから、その場その場の空気に流される。それが現象としては「空気を読んで」ということになる。
同じ如才なさでも、デニス(セアーの知り合い)の如才なさはエリックの素朴なものとは違う。デニスの如才なさには、計算ずくの、それも日本語で、ずるさを隠したずるさがある。見える状況の裏まで、相手の気持ちの深層まで見透かした「空気の深読み」がある。デニスとちょっと話をすれば、ずるさに気がつきそうなものなのだが、気がつくまでに時間のかかる人もいれば、いつまでたっても気がつかない様子の人たちがいた。その多くが女性で、もしかしたら、気がつかないふりをして、それこそ狐と狸の騙しあいのようなゲームを楽しんでいたのかもしれない。

三人とも可も不可もない、それなりの容貌で、誰が一番格好いい、格好悪いというのはない。外見は好み次第でどっちのほうがという話になる。ところが、親しみやすさというのか如才のなさの違いから女性のもてかたには大きな違いがあった。エリックは芯のないやさしさから男勝りの彼女に引きずられるような生活を送っていた。セアーはまともに彼女がいたことがない。デニスは彼女(と呼んでいいと思うのだが)が何人もいた。

デニスから意味のある、生きてゆくうえで、なんらかの参考になるような意見を聞くのは難しい。耳に痛いことを、よくないことでもかまわないから聞かせてくれと頼んだところで、上手にはぐらかされる。エリックに似たようなことを頼んだら、これ以上ないというほど下手にはぐらかそうとするだろう。セアーに言ったらどうなるかと考えることには意味がない。そんなこと言わなくても、セアーは自分のロジックで、相手が少々傷つこうがつくまいが言いたいことを言ってくる。

誰とでも話をあわせて、人当たりのいいエリックと、どうみても偏屈にしか見えないセアー。エリックと話をしてもストレスを感じることはないが、セアーといればなんらかのストレスを感じる。人に好かれるエリックと人が避けたいと思うセアー。そんな二人と半年もつきあっていると、極端にいってしまえば、人がいいだけのエリックより、なんにしてもまじめに考えて、妥当かどうかは別にして、自分の意見を口にするセアーのほうが、知り合ってよかったと思うようになった。一所懸命生きようとすると、どうしても人当たりはよくなくなる。
セアーの言い分がいつも参考になるわけではないが、聞けてよかったということもある。苦いから良薬とは限らないが、苦いのを避けて甘いものだけをと思っていたら、良薬を知ることすらなくなってしまう。セアーには良薬があるが、エリックにはその場のその場の甘さしかない。回りを見渡せば、出し惜しみしている訳ではないと思うのだが、良薬を持っている人はいるようでなかなかいない。気がつかないだけかもしれないが。
2017/7/2