製鉄を追いかけ始めた(改版1)

「野球場をつくってから言ってこい」
http://mycommonsense.ninja-web.net/business13/bus13.12.htmlの続きです。

名古屋の電炉屋で聞いた話から製鉄を追いかけなければと思いだした。ところが、どうしても負の意識が抜けきれない。そんな重厚長大の総本山のような業界にいったところで門前払いが関の山、高専の修学旅行で思い知ったんじゃなかったのか、お前、よしておけという自分がいた。
七十年に修学旅行で八幡製鉄所に行って、インゴットから薄板への時代ものの圧延設備を見せてもらった。そんな取るに足りない経験からでも、多少の親近感ぐらいあってもよさそうなのに、負の気持ちしかなかった。何度も負の気持ちを噛みしめながら、だからどうした、丁度いい機会だ、そんなもの押しつぶしてやると勇んで出ていこうとした。

製鉄に関しては一般常識に毛の生えた程度の知識しかない。ざっと製鉄関係の本を読んではみたが、所詮つけ刃。相手は世界に冠たる製鉄会社、巨大な戦艦に竹やり片手に向かっていくようなものだった。正直怖かった。ただ怖いのは戦艦で、乗っているのは、「専門は違っても同じ人間じゃないか」と、口にだしてまで思おうとした。行ったところで、なんともしようがないかもしれないが、もともと何もないのだから失うものもない。多少なりとも相手にしてもらえれば、勉強にはなる。知らなかったことを知って、プラスはあってもマイナスはない。

<高専―負の意識>
ちょっと横道にそれるが、負の意識を植え付けられた、呆れた修学旅行について書いておく。高専の、少なくとも当時の東京高専の修学旅行は工場見学だった。学校の指導というのか強制の下、みんなでこの辺りからあの辺りまでと大まかにコース決めて、そのコースにある企業に工場見学をお願いして日程を立てるものだった。
三年間の積立金をつかって工場見学なんて、誰も行きたくない。あと二年すれば就職で、順当にいけば六十の定年まで四十年間、楽隠居なんかできそうもないから、働きつづけて下手すりゃ五十年もの間工場暮らしになる。それをわざわざ卒業前に雁首そろえて見に行くか? 戦前でもあるまいし、あんまりじゃないか。冗談じゃない、積立金返せ、みんな勝手に好きなことに使った方がましだ。
意気込んで学校側に申し入れたが、文部省が勝ってに決めた規則なんだろう、聞き耳なんかありゃしない。お役人(や民僚)に人情だとか粋な計らいなど期待するほうが馬鹿ってことでは、今も昔もかわらない。

大阪から広島によって、北九州の黒崎駅前の時代を感じさせる薄汚れた旅館についた。誰がこんな貧乏ったらしい旅館を手配したんだとみんなが思った。地の利のあるヤツなんかいない。おおかた工場見学を依頼した担当者に紹介してもらったのだろう。翌朝、約束の時間に二十数人にクラス担当も同行して八幡製鉄所の正門に着いた。世話役を押し付けられた同級生が守衛所でなにかゴタゴタやっていた。工場見学をお願いした往復はがきの返信を片手に、困りきった顔をしていた。
守衛の話では、見学の受け入れ窓口だった人が昨晩交通事故で死亡して、どのような予定が組まれているのか分からない。調べてみたが見学の予定なんか入っていないと言う。死亡したと言われると、まさか本当かよとは言えない。「こころからご愁傷さまで……」ということになるが、だからどうした。付き添いの先生もいれて三十人近くが東京から遠路はるばる来てみれば、「聞いてない、帰れって」ことなのか?

何が起こったのか?いくつかの可能性があるが、どう考えてもバカにした話でやってられない。担当者が一人で、誰とも相談もせずに個人のメモで工場見学の依頼を処理していたとは思えない。会社としての来客リストぐらいあるだろうし、組織として共有しているはずだ。もし共有されていないのだったら、たかが高専の悪ガキども、往復ハガキで申し込んできたから、社交辞令として見学了解の旨返信ハガで送り返してやったが、まさかあんなものを真に受けるか? まあ来たら来たで適当なところを見せて追い出しゃいい。
相手は高専の生徒、いちいち上司に報告するまでのこともないとでも思ってたんじゃないか。オーストラリアの原住民が人として勘定されてなかったように、見学客として扱われなかったのかもしれない。

来年になれば就職活動になるが、製鉄所の正門で、高専なんてのは、いくら勉強したところで、せいぜい職工養成所としか思われちゃいないことを思い知らされた。この負の気持ち、八幡製鉄で背負わされたときは、まだぼんやりしていた。それが、日立精機に就職したら、はじめは大したことないようにみえても、時の経過とともに重くなっていって人の背中を丸めてしまう、溌剌とした若い人たちを卑屈にして、扱いやすい会社人や職工の鋳型に押し込む力になっていくものだということを知った。どこにいっても背後霊のように付きまとって、振り落とす機会も術も見つからないまま、敷かれたレールに乗せられて高専卒として人生が終わる。

製鉄業界も広いが、どうせいくのなら、最大手から始めたほうがいい。修学旅行では手厚い(?)もてなしを受けたこともあって、ちょっと意地になっていた。いくら最大手といったところで相手は製鉄がご専門、こっちは産業用制御システム屋、お互い専門が違うだけ。サプライヤーとパーチェサー、売り手と買い手の違いはあっても、立場は対等、突っ張るつもりはないが、卑屈になることもなければ、阿るつもりもない。

最大手なら、このアプリケーションでは、このプロジェクトでは使えないとしても、違うアプリケーションもあるだろうし、いくつものプロジェクトを抱えているはず。国内投資も飽和してきたところに円高ドル安の風もやみそうもないし、海外展開しなければならないところにきているだろう。城壁にも城門にも気圧されるが、そんなことはいってられない。開かずの城門なんてないだろうし、なんとしてもこじ開けてやる。幸い事務所のある茅場町から歩いてでも行けるところに本社もある。

インターネットなどない時代、素人が得られ情報は限られている。そんな限られた情報集めに手間暇かけている余裕はない。会社四季報から大代表の電話番号をみつけて電話をかけた。あまりに整ったきれいな応答に録音されたメッセージだと思った。手短に要点をつたえて、担当部署と思われるところに転送していだけるよう頼んだ。こんどは普通の事務的な人の声だった。また簡単に要件を伝えて、担当者に電話をまわしてもらった。要件を話し始めたら、
「そんなことぁ、こっちに来てからにしろ。エレベータで六階までこい。来週の火曜か水曜の午後一でどうだ」

話が早い。エレベータに乗っていて、何も知らないで飛び込みできて、この話の速さに付いていけるのかが心配になってきた。
十五人ぐらいは入れるゆったりした会議室に通されて、壁に掛けられた昔の製鉄ラインの写真をみていたら、ばっとドアがあいて五十ちょっと前くらいのゴツイ人が入ってきた。
さして暑くもないのに、ネクタイは大きくゆるんで胸の真ん中にぶらさがっていた。裸足で健康サンダルはいて、くわえたばこ。これが「誇り高き鉄の男」なのかと、半分あきれながら失礼にならないように上から下まで見てしまった。
単刀直入で口調は荒っぽいが、さっぱりした人柄が湧き出ているような人だった。
本題に入ろうにも、これといった本題をもってきたわけじゃない。こんな会社もあるんで、何かの時、特に海外プロジェクトでお手伝いさせていただける可能性でもあれば、ご一報いただければと紹介にあがっただけ。やくざ映画でいえば手短な仁義を切りにと言うだけだった。

ざっと会社の歴史から始めて、主な事業体とその主要製品の紹介に入ろうとしたら、
「おい、そんな仁義はいい。アメリカで使ってるから知らない会社じゃない。インランドとの合弁、」
と言いかけて、インランドがなんだか分かっていないのに気がついた。ちょっと全体像から話さなきゃわかんないな、この若いのはと思ったのだろう。
「うちだって単独でってのはリスクが大きいからな。インランド・スチールと合弁で薄板やってる。知らないのか」
恰好つけようったって、付けようがない。
ここは正直に何も知らない。何を知らなきゃならないかの大雑把なところを知ることから始めなきゃって、身のほどしらずに来てしまいましたと言った。
呆れた顔が苦笑いに変わったと思ったら、ちょっとそこまではという大笑いをされた。ついつられて笑いそうになるのを抑えるのが大変な、裏のない笑いだった。
「なんだそういうことか、CCはやったことあるんだろう」
「えぇっ、CCって、何なんですか」
さすがにびっくりした顔をして、
「ええっ、コンテニュアウス・キャスターだろうが」
「す、すいません、そのコンテニュアなんとかって、なんなんですか」
もう、なんなんだコイツって顔して、
白板にざっとスケッチを描いて、横にContinuous Caster=連続鋳造機(連鋳機)、その下にMannesmann Demag、Schleman-Siemach、SMS Concast、日鉄、日立造船、住友重機……と書いて、このくらいは知っとけやという口調で説明してくれた。なにからなにまで初めて耳にする言葉、海外の社名も多いし聞き取れない。そのたびに、「すいません、それなんですか」って恐々訊いた。
「何にも知らないみたいだな。いい機会だからちょっと勉強したらいい。事務所も歩いてでも来れるところだし、オレでわかることならなんでも教えてやるから。たまにお茶でも飲みにくればいい」
胸の辺りでぶらぶらしているネクタイにたばこの灰がかかって、なんどかぱっぱっと振り落としながら、でもくわえたばこはやめない。 歩くたびにペタペタ音のする健康サンダルが足の油ですべって危ない。

いい人に会えた。茅場町から東西線で日本橋まで一駅、時間という時間もかからない。天気のいい日なら散歩がてらに歩いてでもいける。ただルートセールスでもあるまいし、空手で近所まで来たんでという訳にはいかない。事業部から製鉄関係の事例案内やニュースを取り寄せては、「こんなもんが届いたんですけど、何かの参考にでもなれば」と言いながら、顔つなぎに腐心した。
煩い奴だと思われないように日をあけながら電話すれば気分転換もあるのだろう、時間を割いてくれた。製鉄関係の専門書を読み漁って気になっていたことをそれとなく聞いていった。本からだけでは分からない実の世界の話を聞きながら、書面の上だけ、話だけであれば、付いていけるようになっていった。

半年も経ったある日、「今から、ちょっと来い」と電話がかかってきた。取る物も取り敢えずに出て行った。
いつものように六階の事務所の入り口で内線電話をかけたら、電話も取らずに出てきて、おお早かったなという顔で「遅いじゃないか」と言われた。会議室に三十半ばの人が待っていた。
「六時にゃ、出なきゃならないからな。八幡の小林だ。インランドでもからんでるから知らない仲じゃない。日本支社のことは、君が飛び込みでくるまで誰も知らなかったからな。日本支社のことをざっと話してくれないかな。アメリカのことも製品もいい、知りたいのは日本のことだ」
誰にでもあることだろうが、自社のことは当たり前になってしまって、取り立ててなにを話せばいいのか、まして鉄屋がどのあたりに興味があるのか手探りだった。
トヨタとブリジストンの海外工場では標準採用されているという、ただそれだけで信頼できるサプライヤだと評価されたような気がした。二人してこれからどうするかって話をしだして、一度八幡に主要製品の紹介に来てもらった方がいいんじゃないかということになった。 実務部隊に引き合わせていただける。一歩にも満たない半歩かもしれないが嬉しかった。

注文は結果としてでてくるものであって、すべては存在すること、こんな物やサービスを提供する会社が存在するということを知ってもらうことから始まる。名前も聞いたことのないところに注文が転がってはこない。全体像の紹介から、相手の求めるものの紹介へと一歩一歩近づいていけば、そのうち見積依頼もでてくるだろうし、きちんと応札していけば、必然としての注文が付いてくる。

二人でなにかごちゃごちゃ話していた。話が終わって、部長代理が改まってという口調で言った。
「八幡の方には紹介に行ってもらうけど、その前にテストとして見積を一つ出してもらえないかな。誤解されると困っちゃうから、言っておくけど、これは実案件じゃない。あくまでもそっちの能力を評価するためにテストだ。いいかテストだ」
「テストしていただけるだけでもありがたいです。言ってみれば模擬試験のようなもんですかね」
「そう、模擬試験と思ってもらえればいい。そこでだ、見積依頼を出すには、うちの納入指定業者として登録しなきゃならない。登録してないところには見積依頼を出せないんだ。わかるか。いつもざっくばらんに話してるけど、こういうところだけは堅い会社なんだ。ちょっと面倒だけどな」

堅い会社には胸をはったところがあるが、顔には面倒かけてすまないなという気持ちがにじみ出ていた。見積を依頼するのに、すまなそうな顔をされたのは初めてだった。郵送で届いた見積依頼をみて、一束はあろうかというページ数にも驚いたが、事業部からでてきたProposal-Reference onlyと書かれた見積は、大きなバインダー一冊に詰め込んだものだった。数ページの見積なら大した手間ではないが、連続鋳造機向けのターンキー・システムともなると、見積を作成する工数だけでも、五万円ではすまない。模擬テストを受けるにも結構な金がかかる。すまなそうにしていた理由が分かった。
見積は以前のプロジェクトのものを編集すれば、Reference用のものが出来上がるが、納入指定業者登録のための資料は以前のものを編集してではすまない、もっと手間暇かかるものだった。

小林さんの顔をちょっとみて、これで進めていいよなと確認でもしたのか、ノートに挟んであった紙をとりだして、
「で、これなんだけど」といいながら、A4五ページに印刷したアンケート用紙のようなものを渡された。まるで数学の文章問題がならんでいるように見えた。問題が数行書かれていて、その下に同じぐらいの答えを書く余白がある。
会社の設立から始まって、組織や事業体の規模から主要製品に、エンジニアリング実績などなど、事細かな設問が並んでいた。

ざっと目を通した。なにも特別なことはないが、かなりの資料を集めなければならない。日本でできることでもなし、そんなもの本社に任せるしかない。客と本社をつなぐだけで、自分では何もしないのに余裕の顔で答えた。
「日本支社では用意しきれないので、アメリカの事業部に依頼します。ちょっと時間がかかると思いますが。できるだけ早くしますけど、これといった期日ありますか」
アメリカにつなぐしかないが、どこまで真面目にやってくれるのか心配でならなかった。ここまできて、なしのつぶてだったらどうしようという不安が先にたった。
「まあ、特別急ぐわけじゃないからいいけど、二三週間もあればいいかな。これからだからしっかり頼むよ」
何度もお礼をいって事務所に帰って、モーション・コントロールのディレクター宛てにファックスした。

後で聞いた話だが、モーション・コントロール事業部からドライブ・システム事業部に話が回ってひと騒ぎになった。「日本支社のドライブ担当が一人で世界最大の製鉄メーカの正門をこじ開けようとしている。何も知らない一人に任せておくわけにはいかない」
納入指定業者への登録となると、ドライブ・システムだけではしきれない。ピッツバーグにいる製鉄業界担当のインダストリー・セールスに話が持ち込まれて、ACが社をあげて市場開拓に乗り出さなければという話になった。インダストリー・セールスなんて聞いたこともなかった。日本支社ではたぶん誰も知らなかっただろう。

二週間後にはアンケート用紙の各項目に対する回答が届いた。大きなバインダー三冊にインデックスまでつけてまとめられていた。きちんと整理されてはいても、あまりの量に目を通す気にもならなかった。日本語ならまだしも、社内用語や専門用語も並んだ書類、英語に慣れた人でも、読み通すにはかなりの時間がかかる。いつも思うのだが、アメリカの資料もバインダーも日本では手にあまる。車でならなんということもない大きさでも、手持ちで電車に徒歩の日本では大きすぎるし重すぎる。展示会用に用意した大きな手提げバッグを両手に、最後はよいしょっと声をかけて机の上に並べた。A4五ページがとんでもない量になって返ってきた。内容がどうであれ、量だけでも真面目に揃えてきたのがわかる。要求したのはいいが、誰がこんな資料に目を通すのか。そんな暇な人が要るとも思えない。事務手続きを重さで押し込んだような気がした。

翌週、製鉄業界担当のインダストリー・セールスから家に電話がかかってきた。飛び込み営業から半年、この先どうしたものかと考えていたところに、急に堰を切ったようにすべてが動き出した。
2020/5/26