へとへとになって終わってみれば(改版1)

日本支社で始めた無謀なCNC(Computerized Numerical Controller)開発プロジェクト、億の単位の金をかけて三年以上ままごとのようなことをやって、結局できませんで終わった。そこで止めてしまえばいいものを、日本側の親会社の思惑に押し切られてクリーブランドの事業部がいやいや引き継がされた。
「三月(みつき)もあれば十分だろう、ちょっとクリーブランドに行ってこい」と言われてきてみれば、一年三ヶ月、体力の限界に挑むようなことになった。日本語のマニュアル作成を担当しただけだったのに、気がついたら開発の責任を押し付けられていた。

開発プロジェクトには、合弁相手のアメリカの会社の技術を盗もうという日本側の親会社の魂胆が隠れていた。日本株式会社の一翼をになう超優良企業が、時は明治でもなければ、戦後の復興期でもない八十年代の中ごろなっても、物まね根性がぬけきれない。渦中にいたときには気がつかなかったが、恥を知れと気がついたときには、足抜けしようのないところまで入り込んでいた。

事業部の朝は早い。八時にはみんなフルで動いている。その分帰りも早いのだし、なにも合わせる必要もない。ただ、わかっていても、日本のように九時ちょっと前の出社はできない。事業部からみれば、日本支社から押しかけたマーケティング見習い、なんとしてでもそれなりの信頼を勝ち得なければ仕事にならない。頓挫したプロジェクトからでてきたこともあって、冷たい視線を浴びながら水面下からのスタートだった。

日本側の親会社から出向で来ている上司、社内の政治力学でしか考えられない。言っていることがどれほどのことなのかわってない。「ソースコードとドキュメントを持っていって、事業部のマーケティングとエンジニアリングに引き継いでこい」はいいが、引き継ごうにも相手がいない。
事業部のマーケティング・マネージャとイタリアの合弁会社からも一人きて、三人で協力してと聞いてはいたが、ここまでの嘘というのか間抜けな誤解(?)はなかなかない。

誰も日本で勝手に始めて頓挫したプロジェクトにはかかわりあいたくない。下手にかかわれば、キャリアに傷がつきかねない。マーケティング・マネージャ、「話は聞いているが、日本の競合メーカとの互換性という開発仕様なんかわかりっこない」と一切の関与を拒否した。イタリア人も似たようなもので、何を言っても、「Strange」しかいわない。それはそうで、イタリアの合弁会社のCNCは世界の標準仕様になってしまったドイツの重電メーカのCNCとも日本のメーカのCNCともまったく違う代物で、工作機械メーカの目には、それこそ「なんだそれ、こんな奇妙奇天烈なCNCもあったのか」と腰をぬかしかねないものだった。

一人放り出されて、開発仕様を細部の細部まで決めなければならなくなった。それというのも、ハードウェアもソフトウェアもエンジニアリングは、マーケティングが要求した仕様の通りに開発するだけで、それが機能するかどうかの責任は取らない。開発のすべての責任は一義的にマーケティングにあった。

三年かけて日本で書いたソースコードと仕様書を抱えて、ソフトウェア・エンジニアリングのマネージャに上司から言われたとことを伝えた。
「日本で数億円の金をかけて開発したソースコードだ。使えるところは使って、やり直しの手間を少しでも省けないか」
なにを馬鹿なことを言ってると呆れ顔で、
「何年かけたか、いくらかけたか知らないが、使えるところなんかありっこないじゃないか。どこか使えるところもあるかもしれないと探す手間と、見つかるかもしれない使えるものの価値を秤にかけたら、ソースコードや仕様書を見る時間のほうがもったいない」
そうは言われてもと思いながらも、言ってる通りなだけになんとも言い返せない。でも言われたことをそのまま日本の上司に報告したら、がっかりするだけじゃすまない。親会社の課長としての立場をどうするかになる。
「言ってることはよくわかる。ソフトウェアには素人のオレでもそう思う。でもなー、Mr Inoueの立場を考えると、そうですよねって言えないんだ、わかるか」
だからどうした、じゃあ、お前がチェックするのかと笑ってる。
「使えないものは使えない。でもな、家でいえば、たとえばだ、窓枠とかドアノブとか、ちゃちな部品ぐらい再利用できそうなものあるんじゃないか」
もう馬鹿馬鹿しくて話をする気にもならないのだろう。薄ら笑いを浮かべて両手を組んで指で遊んでる。
自分でも、何を馬鹿なことを言ってると思っている。三年以上も戯れ事してきて、後始末を人に押し付けて涼しい顔をしている奴らにはもう腹も立たなくなっていた。失礼になりかねないのを承知の上で言わせていただければ、世の中には何もしないで、おとなしくしていたほうがいいという人たちもいる。それにしても、そんな部隊を率いて、戦場も知らずに指揮をとっている上司連中が哀れに思えてきた。事実を言っても聞く耳は持たないだろうし、理解する知識も能力もない。ここは聞きたいことを言っておくしかない。
「Mr Inoueには使えるソースコードはできるだけ再利用することにするって、言っとくから」

朝八時過ぎから動き出して昼飯に帰宅して、一時半ころから七時ちょっとすぎまでバタバタして、家に帰って夕飯食って、九時ごろには事務所に戻って残務と日本支社との電話という毎日だった。まだ三十代後半だったらもっていたのだろう。それでも半年を過ぎたころには、精神的にも肉体的にも限界を超えている自覚症状がでてきた。眩暈はするし耳鳴りもやまない。
多少体にガタがきても、走り続けるしかない。そんなある日、歯の調子がおかしいことに気がついた。同僚に親切な歯医者を紹介してもらっていったら、かなり進んだ歯周病で手術しなければなかった。上下の前歯の左右の計四本の歯茎を切開して縫合した。水どころか空気まで沁みて、二三日は何を食べるという気にもならなかった。
歯は磨いてきたが、磨いているというだけの雑な磨き方だったのを知った。歯ブラシの選び方からはじまって歯の磨きかたを、英語の問題もあってのことにしても、懇切丁寧というより通じていることを確認しながら、それこそ噛んで含めるような話を聞かされた。そこはアメリカ、話だけでは終わらない。きちんとご推奨の電動歯ブラシを買わされた。

体力の限界を確かめるようなことをし続けて、やっと開発の目処がたってきた。もうクリーブランドにいる理由はない。日本に帰って、カタログも作らなければならないし、リリースの準備にとりかからなければならない。販売資料片手に親会社の引きで懇意にしていただいている工作機械メーカにテスト採用のお願いに上がらなければならない。

たかが一年三ヶ月でしかないのに、帰国したら日本支社の経営陣がすっかり入れ替わっていた。雇ってくれた社長は解任され、アメリカからの駐在員はアドバイザーという肩書きでラインからはずされていた。経営が自動車部品しか作ったことのない日本の親会社からの出向者にとって変わられていた。スパークプラグやオルタネータぐらいしか分からない役員に制御の「せ」の字から始めて製品の説明を繰り返した。一時代前の現役とでも言えばいいのか、偉そうな格好をと腐心しているだけの寂しい人たちだった。

自動車部品の大量生産という単調な世界から出てきた人たち、仕事を通して得た知識しかない。今までとは違う世界の、想像したこともなかったことを勉強しなければならない立場に置かれたことに気がつかない。人に説明しろという前に、最低限の知識ぐらい、たとえ付け刃でもという常識すら持ち合わせていなかった。
言い草が笑えない。「CNCは家庭の主婦が使うものではない」
そこまではいい、その先が最低限の知識の欠如を物語っている。
「であれば、CNCの取扱説明書はA4の二三ページで十分なはずである」
何を寝ぼけたことを、スパークプラグじゃない。四人で一年近くかけて、四千ページを超えるマニュアルを作ってきた者に対する戯言。話にならない。刈谷の本社に帰って、勉強して出直してこいと怒鳴りたかった。

市場投入に向けた予定通りの作業なのだが、ありますというだけのCNC、親会社の圧力がなければ誰も話すら聞いてくれない。工作機械はよほど特殊なものなければ計画生産で、CNCは標準採用で全部取れるか、一台も使ってもらえないというAll or Nothingのビジネス。開発まで担当してきたマーケティングとしては、Nothingであることがわかっていても、市場に投入しなければならない。それは、あちこち訪問してビジネスになりっこないことを検証する作業だった。
開発したCNCには自分の子供のような思い入れがあったが、個人の思いでどうなるわけでもない。ビジネスにならなければ、いつ捨てるかでしかない。走り回って、へとへとになって、オレはいったい何をしてきたんだって……。
ある日、突然営業活動をしないことが決定された。当然の話で驚きはしない。正直開放されてほっとした。ただそうなると、今度はやることがない。終わってみれば、先がない。

どうしたものかと思いながら、あれこれ閉めの作業をしていたら、おい、それはないだろうという辞令ができてきた。
「ドライブビジネスを立ち上げろ。そのためにメコン(ミルウォーキーから車で二十分ほどの町)にある事業部に研修にいってこい」
ラインから外れて、やることのないジョンソンも一緒だった。

入社以来マーケティング部の人間だったが、やらなければならないことを押し付けられるままに、もう自分でも何屋なのかわからなくなっていた。肩書きも何度も変わって、もらった名刺なんか、いくらも使わないうちに、また新しくなった。
何屋でもなんでもかまわないが、今度ばかりは話が違う。ドライブビジネス、日本では制御機器屋にいても名前からでは、なんだか分からない人が多いだろう。誤解を恐れずに言ってしまえば、三相誘導電動機(工場でモータといえば普通これになる)の回転数(速度)を制御するインバータ(ACドライブ)を売ってこい、そして販売体制をつくれというものだった。

まあ、CNCやPLCの位置決めモジュールは、サーボモータで速度と位置を制御するのだから、技術的には簡単に速度の制御だけになったと言えないこともない。ただ市場が違いすぎる。CNCは工作機械専用だし、位置決めモジュールはPLCの採用に引きずられるかたちでしか売れない。インバータはあまりに汎用で、単独のビジネスとなると、どこから手をつけていいのか見当もつかない。挙句の果てが、持っているのはインバータまでで、モータはアメリカのモータ屋からの買い物、制御盤どころかエンジニアリングまで提供する日本のご同業に一人で太刀打ちできるわけがない。

最低限の業界知識もなしで、組織の支援もなく砂漠の真ん中に一人領地替え(転封)されたようなものだった。もともと何もないのだから、もし間違って生き延びたら儲けもの、ダメならダメでレイオフすればいいだけで、痛くも痒くもないぐらいにしか思っちゃいない。「狡兎死して走狗烹らる」を地でいったもので、使い捨てのノンキャリアの宿命をいやでも痛感させられた。

誰もが売れっこないと思っているインバータをかかえて右往左往が始まった。営業の何人かから、ソフトウェア・エンジニアリングからだけならまだしも、マーケティングの仲間からも、「もうこれで、藤澤さんも終わりだ」という声が聞こえてきた。
誰にもできないからこそ、出番がある。試練をチャンスに変えなければ生きようのないノンキャリア、「くそったれ、今に見てろ」という気持ちだけだった。
2020/2/2