ドライブビジネスへ(改版1)

「へとへとになって終わってみれば」
http://mycommonsense.ninja-web.net/business13/bus13.11.htmlの続きです。

シカゴで乗り換えてやっと着いた。クリーブランドやミルウォーキーなどの地方都市には直行便がない。何度も来てるから、ただ疲れただけで何の感慨もない。ジョンソンと二人で重いスーツケースを引きずりながら、レンタカー屋にいって驚いた。カウンターの女性がスラブ系の目の覚めるような美人だった。二十代中ごろで誰をも惹きつける華がある。あまりにも整いすぎていて、ファッション誌をみているようだった。ただそれは何年か前のものだった。どこもミニスカートになってしまったのに、ずいぶん前に流行ったロングスカートが、美人なだけにもったいない。それを見て皮肉屋のジョンソンが言った。
「ニューヨークで流行っているのがクリーブランドにつくのに一年。そこからここに来るまで、また一年はかかる。」
クリーブランドは、往時は自動車産業で栄えた地方都市だが、ミルウォーキーはやたらと教会ばかりが目につく、うすっ暗い田舎町だった。聞くところでは、アイルランドとポーランド系の移民が入ってくるたびに自分たちの教会を作ったのが始まりらしい。

そんな、これといって何があるわけでもない退屈なミルウォーキーにも、日本人に受けそうなものが一つだけある。二軒しか行ったことはないが、ダウンタウンには町を象徴するかのようにマイクロ・ブリュワリーがあった。
後日、偶然来社していた日本の某ビールメーカのお二人を「Water Street Brewery」にお連れしたことがある。他人のことは言えないが、仕事仕事で追われる日本のサラリーマン、ささやかなひと時を楽しむ余裕がない。ビール一杯にも仕事っ気が抜けない。一口飲んで、「うん? こりゃダメだ。糖が抜けてないから、発酵が進んで風味が変わっちゃう」
個性のあるビールでいいと思うのだが、下戸にはわからない。そもそもそこはマイクロ・ブリュワリー、全国規模の巨大なビール会社とは違う。地産地消どころか店産店消だからなりたつ、店で出すだけのビール。量販ビールのように日持ちを気にすることもない。

地ビール以外にこれといった楽しみもない町にジョンソンと二人。会社が用意したダウンタウンのアパートで一ヵ月半もの共同生活だった。アパートの隣には、車の運転もままならなくなったお年寄りの老人ホーム、その先には総合病院があった。それを囲むようにダウンタウンのアパートが立ち並んでいた。近所の人たちを相手にした小さなスーパーマーケットに行っては、食糧やビールを買い込んできて二人で自炊した。朝から晩まで一緒なのに、お互いの自由のためにと車は二台だった。

メコンのモーション・コントロール事業部ははじめてではないが、以前のようにCNC開発プロジェクトの一員としてのミーティングとは違う。どこでどういうわけで決められたのか訊きもしなかったが、事業部の日本市場への、俄仕立ての切り込み役。早々に先がありそうにみえるところまでもちこめればいいが、いくらも経たないうちにレイオフされるかもしれない。事実一年ちょっとでジョンソンは日本にいながらにしてレイオフされた。駐在十一年は長すぎた。いなくても本社はなにも困らない。不景気でレイオフを進めていた事業部には戻る席がなかった。

サーボ系のエンジニアリングに顔見知りが何人かいたが、そのうち嫌でも会うだろうし、来て早々挨拶しなければという付き合いでもない。今回は今までとは違う。水面下からではない。まっさらの、何もないゼロからのスタートだった。受付で簡単に自己紹介して、ジョンソンと二人でマーケティング・マネージャのマーチン・サイファートの部屋を探した。アトリウムの二階に並んだハモニカのようなマネージャの部屋を見ながら歩いて行った。事業部長の部屋から遠く離れた一番奥だった。部屋の広さと位置が事業部内の立場を表している。
日本市場についての軽い、表面的なブリーフィングともつかない世間話から始めた。アメリカ人にはよくいるタイプで、十里四方とでもいうのか、自分が住んでいる、あるは住んできたところから見えるものまでしか見えない、地場でしか棲息できない人だった。言葉の通じるマンハッタンでもびくびくしながらだろうし、歌舞伎町あたりで放り出されたら、足がすくんで歩けない。世間知らずの田舎者相手に出口のない話になるのに時間はかからなかった。

話の腰を折るかのように、サイファートの口から決まり文句がでてきた。
「来季の売り上げのコミットメントを出せ。それ次第では予算を考える」
手堅くなければ生きていけない、ちゃちな金貸しと何も変わらない。質草なしで質屋とは話のしようがないが、金貸しや質屋のメンタリティで海外進出はできない。ビジネスをどう展開するのか、市場のどこに注力して切り開くのか、販売網をサービス体制をどのように構築していくのか。そのための予算をどうするのか……。そのすべてを出先の使いっぱしりに放り投げて、コミットメントを引き出せば、あとは上司の判断としか思っちゃいない。なにもしないからミスもなければ、失敗もない。そんな要らないパイプでも管路抵抗だけはしっかりある。

経営学のケーススタディでもあるまいし、市場どころか製品も知らない状態からのコミットメントで事業計画なんか絵に描いた餅にもならない。そんなこと、中学校のときはわかっていたろうに、進学するうちにあって当たり前の知恵(Commonsense)がなくなってしまった。見たところ三十半ば、その歳までいったい何をしてきたのか。町役場で書類の整理がお似合いのマネージャ、切った張ったのビジネスの世界では使い物にならない。
「製品も知らなきゃ、価格帯もなにも情報として頂戴していない段階で、コミットするほどの蛮勇は持ち合わせていない。こっちのコミットメントの前に、事業部の日本市場に対する理解と戦略を概略でいいから教えてもらえないか」
よせばいいのに、ついむっとして言い返した。戦略どころか聞くに値することなんかありゃしない。あれば、コミットメントを繰り返す愚は犯さない。何を言っても上から目線で、
「コミットメントが先だ」
オウムでもあるまいし、他に言うことないのか。アメリカでよく目にする優秀な馬鹿だった。典型的なビーン・カウンター(帳簿屋)で、町のセービングバンク(失礼?)あたりでうろちょろしてる分にはいいが、成長期のアジア市場を想像するなどできるわけもない。器が小さすぎる。地図を開いたところで、日本がどこにあるのかあちこち探す程度の知識しかない。
「出さないとはいってない。ただ日本で戦略を考えて事業計画をたても、事業部の世界戦略と方向が違ったらとんでもないことになる。そこらの大学あたりの経営学でも常識だろう。現場から情報を集めて集計してはわかるが、それがそのまま戦略へにはならない。事業部の戦略も知らずに出先が勝手にって話じゃないだろうが……」
ここまでビジネススクールの小学校版のような話をしても、コミットメント以外にはなにもでてこない。隣にいたジョンソンが薄ら笑いを浮かべているのには気が付いていた。なにを黙って聞いてんるだ、この野郎って、ちらっと顔を見たら、足をけ飛ばされた。クリーブランドのマーケティング・マネージャと押し問答をしたときにもけ飛ばされたことがあった。
それは『もうその辺でやめておけ、なにを言ったってわかる相手じゃない。こんなヤツと言い合うだけ、時間の無駄だ』というものだった。

なんの収穫もなく嫌な思いをしただけだった。一階のセミナールームに歩いていて、早々にこの事業部が嫌になってきた。
「おい、ジョンソン、クリーブランドも田舎だが、ここはほとんど村ってレベルじゃないか。レッドネック相手に日本市場なんか切り開けっこないぞ」
だからどうしたって顔をしてる。
なんだ、こいつ、こんな大物じゃなかったよな。このままじゃ、カタログを作る予算もでてこない。お前は遠からず駐在終えて帰国だからいいけど、オレ一人でなにもできないでレイオフされるまでのたくってろってのか。
ふざけるなって思っていたら、面倒くさそうにしらっと言われた。
「相手にするな。オレたちは製品を勉強しにきたんで、あんなマーケティングもどきとああだのこうだの言い合ってる暇なんかない」
その後がいい。
「田舎者から出てくる戦略なんか、邪魔なだけじゃないか。なければこっちで勝手にやればでいいんだし。あんな馬鹿を相手にするのも今回限りだ。問題は個々の製品を担当しているマーケティングをどう動かすかだ」
ジョンソンの言うとおりで、サイファートとは二度と会わなかった。
ジョンソンの一歩後ろに引いて渦中から抜け出たところに身をおいた、冷めた情熱のような姿勢には何度も救われてきた。わからないヤツには積極性に欠けるとしか見えないだろうが、五里霧中の戦場で匍匐前進したことのある者なら、このジョンソンのありようがどれほど貴重なものなのかが分かる。

セミナールームにはもうテストベンチのようなラックを並べて、トレーナーが待っていた。準備万端、お前たち用意はいいかって、余裕の顔で迎えられた。内輪の二人だけしかいない。三人でやりたいようにやるカスタムコースになった。
製品トレーニングはただじゃない。ACドライブの三日間のトレーニングは顧客やSIなど社外の人たちには確か二千ドル、海外支社は合弁も含めて半額だった。金をとってのトレーニング、日本やヨーロッパの会社でエンジニアが時間を空けてというのとは違う。利益というほど儲かりはしないにしても、独立採算のビジネスで、トレーナーとしての教育を受けた専門家によるトレーニングだった。開発エンジニアではないから、技術的な詳細にまでは踏み込めないが、製品を使うアプリケーション側に立った、堂にいった説明と、ハンズオントレーニングは無駄のないしっかりしたものだった。

社内の人間だけという気安さもあって、しょっちゅう脱線して内輪話になっては、再開してが続いた。技術的な詳細になると、日本支社で市場を開拓する立場の人ということで、開発エンジニアがでてきて説明してくれた。高度成長を続ける日本が気になるのだろう、トレーナーがちょっと声をかければ我も我もと出てきた。これほど充実したトレーニングは想像したこともなかった。それは、DCドライブでも、サーボ系でも同じだった。

トレーニングは、コストセンターとしての製品事業部の立場とセールス事業部との関係を反映していた。製品事業部は市場でポールポジションをとれる製品を開発して製造して、開発経費を回収するためのマークアップを乗せてセールス事業部に売る。セールス事業部は、プロフィットセンターとして出てきた製品をどのような販売チャンネルでいくらで売るかに責任を負っていた。五十万点にもおよぶ製品があるから、セールス事業部としては売り易い、利益の上がる製品に、そして製品事業部からしっかりしたサポートを得られる製品に注力する。どんなにいい製品でもトレーニングがおざなりだったり、あてにならないサポートしか得られない製品は後回しどころか扱って貰えない。セールス事業部は数ある製品事業部の唯一の顧客だから、いくつもの製品事業部がセールス事業部の工数を取り合う競争になっていた。

売れるか売れないかは製品そのものだけでなく、セールス事業部とその延長線にいる代理店やエンジニアリング会社にどこまで懇切丁寧なトレーニングを提供できるかにかかっている。それを、エンジニアの空き時間で済ますわけにはいかない。セールス事業部に売ってもらわなければ製品事業部として成り立たない。ジョンソンが言うように、サイファートもどきがいくら「コミットメント」と繰り返したところで、製品事業部の生命線を握っているのはこっちだった。セールス事業部が会社をけん引している。日本のモノづくりに明け暮れる製造業との違いを痛感させられたトレーニングだった。
2020/4/5