タイヤの大波(改版)

「手抜きにもほどがある」の続きです。
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押出機用のドライブシステムなら少なく見積もっても二千万円、大きなものになれば三千万円近くになる。標準採用に持ち込めば、年に三、四台のリピートオーダを期待できる。輪転機とあわせれば、年三億円は固い。
製鉄プロジェクトの方が案件ごとの額は大きいが、受注できる可能性は極端に低いし、なんとか受注にこぎつけても、次は分からない。安定したビジネスをと思えば、数千万円クラスのリピートオーダの方がいい。製鉄のように数億にでもならない限り、シーメンスが出てくる心配もない。輪転機につづくものを見つけて、これで日本のドライブシステムの基盤ができるとほっとしていた。

生産ラインの中核に位置する機械装置を手中にしたら、前後の工程や周辺におまけのビジネスチャンスはないかと調べだす。市場開拓の定石だ。輪転機の周辺も探っていったが、印刷後のキャリアや周辺には小さなモータまでで話にならない。タイヤは紙と違って重いし、加硫前のゴムは扱いにくい。押出機なら、前後の工程にビジネスチャンスがあるかもしれないと、タイヤ製造関係の本や資料を読んでいった。同じドライブシステムといっても日本製とは違う。重いはゴツイはで使いにくいアメリカ製、大きなモータがなければ価格が折り合わない。大きいモータを探すような視点でざっとみていったら、おおまか次のような景色がみえてきた。

タイヤ製造は、天然ゴムと合成ゴムにカーボンブラックその他の素材を混ぜて練るミキサーから始まる。このミキサーを提供している大手は二社。それぞれバンバリーミキサー、あるいはインテンシブミキサーと呼んでいるが、傍目には何が違うのかわからない。あれこれ特徴はあるのだろうが、極端にいえば、三千馬力ほどのモータで力任せにゴムを練る大きなミキサーでしかない。
次の工程は、練りあがったゴム塊を畳ほどの厚さに押し延ばす作業で、カレンダーとよばれる機械が使われる。月島にも事業体のある某重機メーカがほぼ独占していた。カレンダーで平らに延ばしたゴムを押出機に押し込んで、厚さ数ミリの長い帯状に延して大きなリールに巻き取っていく。
リールから巻き戻して、定寸に切断してストッカーに格納する。巻き戻しながら(停止せずに)、帯状の側面に対して九十度の角度で切断する必要から、切り刃が帯状のゴムの進行方向に同じ速さで移動しなければならない。この切断方法をフライングカットと呼んでいた。この装置用にPLCと数馬力のサーボモータが売れていた。定寸に切ったゴム板をスタッカーに収納して、スタッカーごとタイヤアッセンブリ―工程におくる。
路面に接触するゴム板は耐摩耗性が、側面に使われるゴム板は弾力性が求められる。更に性質の違うゴムをつなぎ合わせる役目を果たすゴム板などがタイヤアッセンブリ機械で組み上げられて、グニャグニャであはるがタイヤらしい格好になる。次工程の加硫機でグニャグニャにゴムらしい弾力性を付加する。大きなモータが使われるのは押出機までで、スタッカー以降の工程に出番はない。

宝山鉄工所の技術検討会で中国語を解さないことがどれほどの不利なことかと思い知らされたこともあって、中国語を勉強していた。しっかりした先生を探さなければとアジア学生文化協会にお邪魔して、男性個人教師を紹介してもらった。毎週土曜日の朝、事務所で一時間半ほどのレッスンを受けていた。急がなければと市民団体が毎日曜の朝飯田橋駅近くで開いていた講座にも通いはじめた。
授業の合間の休み時間にタイヤの本に目を通していたら、同年配かちょっと年下に見える人から声をかけられた。

「タイヤにご興味があるんですか」
えっと思って顔をあげたら、丁寧な日本語で挨拶された。
「李と申します」
上手な日本語だった。
「いえ、仕事でちょっと関係しそうなんで、」
言い終わらないうちに、名刺を出して、
「韓国タイヤの東京支社の李です」
と自己紹介された。あわてて立ち上がって名刺をだした。
「ACの藤澤です」
「タイヤ業界の設備投資、どうもすごい勢いのようですね」
世辞も過ぎるかと思いながら呼び水をながしたら、固い表情がいっきにくずれて堰を切ったように話し出した。
「そうですね。韓国はうちともう一社でマーケットシェアの四十パーセントずつもって競争してますから、主導権を握らなきゃって必死ですよ。韓国だけじゃなくて、中国やマレーシアなど東南アジアにも大きな工場の建設ラッシュが始まってます」
聴きようによっては自慢話にしか聞こえないが、事実なのだろう。熱すぎる話しぶりで、押し込まれたかのような気になった。受け身が続いて疲れるが、またとないめっけもの、出来るだけの話を聞き出そうと、調子のいい相槌を打っていった。
「来週、いつもでいいでけど、うちに紹介にきませんか」
絵に描いたような渡りに船。ここから韓国の巨大コングロマリットのタイヤ事業体の投資計画の概要が見えてきた。

灘から引き合いがでてくれば、エンドユーザの生産ラインの拡張か新設工場の連絡がきたようなもの。アメリカからも情報がほしい。クリーブランドで市場調査を専門としていたジム・ジビックに連絡した。ジム・ジビックはACのCIAと自称していた男で、世界規模の市場調査のプロだった。クリーブランドで仕事をしていたとき、毎晩遅くまで残っていて駐車場で何度か出会って、たまに一緒に飯を食いにいく中だった。ハッチバックの後部座席から後ろは大きな段ボールにつまった書類で一杯だった。あの段ボール、なんなんだと訊いたら、あれやこれやの資料で、帰ってからも仕事だからと笑っていた。独り暮らしで仕事中毒もかなりものもで、そこらの日本人じゃかなわない。
ちょっと話しただけでは、何をしている人なのか想像もつかない。ところが、こと日本のあれこれの業界のことになると、相手に記憶の跡を残さないように言葉を選びながら、用心深く根掘り葉掘り訊いてきた。
なにやってんだと聞いたら、年に三、四通の業界レポートを出してる。お前も見たことあるだろうという。そう言われてもなんのことだかわからない。ぽかんとしていたら、
「最近のでいえば、そうだな、『Amusement park』と『Brewery Industry』の二つだけど、見てないか」
あああれ、あれか。
「なんだ、あれお前が出したのか。どこで調べたんだ、あんなもの」
「そりゃ、企業秘密だ。それがオレの商売だから」

ジム・ジビックから日本、韓国、中国と東南アジアのタイヤ製造メーカの成長と投資予測が送られてきた。まだドラフトだから、絶対に社内でもオープンにするなと大文字で買いてあった。
なんだ、大まか分かってんじゃないかと、かなり脱色して韓国ACに送って電話した。
「韓国タイヤの東京駐在員から韓国タイヤとクムホタイヤが既存設備の増強と工場新設プロジェクトの話を聞いたが、そっちでビジネスの話になってないのか」
「クムホタイヤの東京支社にも紹介に行きたいんだが、コンタクトを訊いて、教えてもらえないか」
そっけない返事がきた。韓国支社はドライブシステムに手をだしていないから、ビジネスになると考えていないのだろう。それでもしっかりクムホタイヤの東京支社のコンタクトが書いてあった。

クムホタイヤの東京支社に電話して要件を伝えたら、韓国ACが日本支社のドライブシステムのことを紹介してくれていたらしく話が早かった。
月末に本社から海外プロジェクトの担当者が来日するから、そのときにしたらと言われた。親切な口調から、即実ビジネスにつながりそうな雰囲気を感じて、事前訪問をしておくべきだと考えた。
「ありがとうございます。貴重なお時間を割いていただくとなると、できるだけの準備もしたいです。そのためにも、一度御社にお伺いして、事業計画を問題のない範囲で結構ですので、お聞かせ頂けませんでしょうか」
「ああ、そうですね。なかなか今回のような機会はないですから、資料などご用意いただいた方がいいですね。そうですね、来週の水曜か木曜でどうでしょうか」

いくら粘ってもどうにもならないことが多いが、時にはちょっとした偶然からコロコロと転がって、こんなこともあるんだということがある。韓国タイヤは日本のタイヤメーカとのつながりもあるのか、制御システムも日本製で固まっていて手の出しようがなかった。どちらも航空会社までもった巨大財閥の一事業体で、財閥内の統制もあるのだろう、自社だけというわけにもいかないのかもしれない。比較の問題でしかないが、クムホタイヤの方が新興財閥のせいか、オープンに話をしてくれた。

韓国向けだけでもかなりのビジネスを期待できる。そこに中国や東南アジアへの進出プロジェクト、あまり大きすぎて、一人どころかサブも付けて専任チームにでもしなければ、追いきれない。どうしたものかと考えるまでもこともない。アプリケーションエンジニアリングにこれほどの適任者はいないというのがいた。生一本の在日二世でどんな障害でも蹴とばして前に進むしゃにむな姿勢が、煮え切れない上司のもとでは災いになりかねない逸材だった。言われたことを無難にこなす程度のヤツじゃどうにもならないが、日本語と英語に韓国語も問題ないし、李ならなんとでもする。

社長に話すより副社長の方が手っ取り早い。アメリカの事業部に就職して五年ほどアプリケーションエンジニアとして経験を積んできたのをかって、副社長が日本支社に引っ張ってきたいきさつがある。
副社長から話をしてもらうにしても、事前にその可能性があることぐらいは話しておかなければと、状況をざっと話した。多少熱すぎるところはあるが、実直なヤツで謙遜もあってだろうが、そんなとんでもないプロジェクト、背負いきれませんよとにべもなく断られた。断られたことも副社長に伝えて、上手く説得してくれと頼んだ。

翌週の火曜日、副社長が話したのだろう、真っ赤な顔をして部屋に飛び込んできた。
「藤澤さん、クムホの話、出来っこないっていったでしょう。韓国だけならまだしも、中国も東南アジアもでしょう。既設の拡張だけでも大変なのに、Greenfield project(新工場)がいくつあるのかわからないじゃないですか。工場の二つや三つじゃないですよ」
「だから、お願いしてるんで、他に誰がいる。逃げも隠れもしない。いつも後ろについてるから。独りでやれなんて言わないから、この仕事うけてくれ」
「冗談じゃないっすよ。こんなの請け負ったら、体がいくつあっても足りないじゃないですか。それこそ死んじゃいますよ」
「わかってるって、オレもとんでもない鉱脈にぶち当たって、どうしようかと考えたんだけど、何もしないで放っておくってのはないだろ」
「そんなこと言ったって、一人で竹やり持ってってはわけにはいかないですよ」
「心配するな。スティーブのことだ、もうこの話はミルウォーキーのCEOの耳にはいってる。誰も逃げられない。逃げられないのはみんな一緒だ。事業部もアプリケーションエンジニアリングも韓国支社も中国支社も誰も逃げられない」
「よしてくださいよ、おれはまだその中にはいってないですよ」
「いやいや、残念ながら、もう中心メンバーにされちゃってる。いいか、今化け物のような大きな波が押し寄せて来る。遠目に見ただけでも怖くなる、とんでもない大波だ。そこで波にのまれちゃって逃げ出そうするヤツもいるだろうけど、もう間に合わない。抵抗すれば呑み込まれるだけだ。ここはなんとしてでも波に乗ろうとするしかない。自分だけじゃ乗ってられないから、使えるヤツは誰もでも使う。一蓮托生だ。邪魔なヤツは、社長であろうが誰であろうがおっぽり出す。オレのサインで済むことばかりじゃないけど、サインできるものはなんでもサインしちゃうから。なにかトラブったら、オレの責任だから気にするな。目的達成のためだけを思って、好きなようにやればいいから……。出来るまでが出来たことで、出来たことまでで誰も文句を言いやしないから心配するな」

タイヤ製造ラインに実績のある日本のご同業は韓国タイヤのプロジェクトで忙殺されて、クムホまで手が回らないはずだ。一件当たり数億円を超えない限りシーメンスの本体は動かない。日本支社はでてきたところで、お嬢様ラグビーみたいなもので相手にするまでのこともない。敵という敵もない。ここは食えるだけ食っちゃってという俺たちの草刈り場だ。

副社長からも吹き込まれたのだろう、李が本領を発揮しはじめた。韓国だけでなく中国や東南アジアの支社も大波にまきこんでいった。エンドユーザの機械装置間もACの通信ネットワークでつないで、工場全体の統合監視制御システムの基盤つくりを目論んだ。通信ネットワークを張り巡らせれば、植民地のようなもので同業を排除できる。
エンドユーザから機械装置メーカにACのドライブシステムを検討するよう要請させるべく現地の営業マンと同行訪問を繰り返していた。海外で拾った情報に尾ひれをつけて、日本の機械装置メーカに海外情報として吹き込む。日本で聞きつけた話から、海外のエンドユーザを誘導する。

アジアを回り続ける行商人のようになってしまって、帰ってくればその足で部屋に飛び込んできた。何かあれば即文句を言ってきた李だったが、もう文句をいってる余裕もなくなって、全体と個々のブリーフィングだけになった。
久々の東京のような感じで飲みいったとき、李らしくもないしんみりした口調でいった。
「話には聞いて想像はしてましたけど、面倒くさいところですよ」
馬力の塊のような李がなにをいいだしたのかと思っていたら、
「いやー、オヤジとお袋の話を聞かされて、ちょっとは勉強もしたし、オレそれなりに韓国語使えると思ってたんですよ」
なんだ、お前、胸をはった在日だったんじゃねぇのかって言いそうになったが、どういったものかとためらった。
「二人ともド田舎の出で、オヤジとお袋韓国語、どうもとんでもない方言みたいなんですよ。もしかしたら、古いのかもしれないけど、クモホの人たち、オレの韓国語を聞いて、分かったような分からないような、へんに引かれちゃって」
「へぇー、そんなのありなんだ。まあ日本でもあるしな。どこでもあるんじゃないか。現代韓国語を拾えていいじゃないか」
「いやいや、これがまた面倒で……」
「何が」
「ほら、日本じゃもう随分薄れちゃったけど、あっちはまだまだ儒教ってのか、昔ながらのが残ってて、上下関係が煩くて、それこそ一日中、敬語って思ってもそんなこまかな敬語なんかしらないし。で、浴びるように酒のむじゃないです。よっぱらって、敬語なんて無理ですよ」
そうだ、そういば、クムホのエライさんたちと日本橋に飯にいったとき、李がいつもの李じゃなくなって、不器用な猫のようになっていたのを思い出した。
並外れた自尊心をそのままに、オレは韓国人だと胸をはって歩いていた李が、母国だと思って帰っていったところで思いもしなかった違和感に戸惑っていた。二十代のなかごろ、三年のニューヨーク駐在を終えて帰国したとき、リバースカルチャーショックが大きかったのに驚いたが、李が受けた違和感はそんなもんじゃなかったろう。

李のおかげで、ドライブシステムは日本支社の年間売り上げの三割以上を叩き出す組織に成長していった。急成長は、それまでは気にすることもなかった組織の歪みを許容限度を超えたものにしてしまう。あっちこっちで生まれたキシミがイヤな音をたてる。関係者は疲弊して、部外者は成功の一端を手にできなかったことからやっかみだす。キシミとやっかみの不協和音が組織の基調重低音のように響き続けていても、そこにかまっている余裕がない。

変わらなければ生き残れないが、変わったところで、生き延びるのが楽になるわけじゃない。自転車じゃないけれど、立ち止まったら倒れる。登れば登るほど坂はきつくなるし、道のないところに道を作ることからはじめなきゃなんてことがあたりまえのように起きてくる。誰もいつまでも走り続けられるわけじゃない。遅かれ早かれ降りるときがくる。自分で降りられるのか、それとも降ろされるか、ときには思いもかけなかった落車なんてこともある。問題は、降りた時にまだ歩き続ける肉体的、精神的な力が残っているどうかになる。
2021/5/22