社会の違いと営業の違い(改版)

「始まりがあれば、終りもある」の続きです。
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ACは、八十年代の中頃には従業員一万五千名を抱え、産業用制御機器専業ということでは、世界で最大の規模を誇っていた。GEをはじめとする巨大な総合重電メーカや特定の領域に特化した競合も多かったが、アメリカ市場におけるACのシェアは八十年代に入っても堅調に伸びていた。七十年代末までは、もし海外進出を考えていたとしても、進出先はヨーロッパだっただろう。だが、そこにはアメリカ以上に巨大な総合重電メーカや専業メーカがひしめいていた。
アジアに目が向いたのは、アメリカの基幹製造業である製鉄や自動車市場が日系企業に侵食されていったことに加えて、日本の生産設備メーカによって顧客であるアメリカの機械装置メーカが淘汰されていくのを目の当たりにしたことがきっかけだった。北米のPLC市場の五十パーセントを握ってはいたが、日本から輸入される機械装置には日本のPLCが搭載されている。輸入機械装置に搭載されたPLCは北米で販売されたものではないから、北米市場シェアにはカウントされない。市場シェアには表れないところで市場を侵食されていた。

七十年代の中頃まで中国はまだ第三世界の旗振り役をしていて、今日のようにアメリカ経済を脅かすほど発展するとは誰も想像していなかった。八十年代最大の侵略者は日系企業で、製鉄や造船に必須の重機械から自動車や家電製品、さらには半導体に至るアメリカの生産活動の中核を脅かす存在になっていた。七十年代の後半になってやっと日本市場の重要性に気にしだしたのだろう、八十年末になっても、何人かのVPから似たようなことを聞かされた。
「もう、受け身に回っているわけにはいかない。日本の競合メーカを日本で忙しくしてやらなきゃならない」

本社がニューヨークやロスアンジェルス、あるいはサンフランシスコにあればアジアの情報も入りやすいが、ウィスコンシン州のミルウォーキーでは限界がある。八十年代の後半にはクリーブランドだけでなく、本社にもその先のメコンにもよく行ったが、エアポートに着いたとたん、時間が逆戻りしたにように感じたことがある。
八十九年、マークと二人で研修のためにメコンにでかけた。ミルウォーキーの空港のレンタカー屋で女性のロングスカートを目にして、皮肉屋のマークが冷ややかに呟いた。
「ニューヨークファッションがここまで伝わってくるのに二年ぐらいかかるんじゃないか」

そこにはいくら日本の状況を訴えても、動かない本社に対する諦めと怒りが混じり合った苛立ちがあった。
日本に駐在して十年近くになるマークはファッションの移り変わりが激しい東京に慣れてすぎていた。それはファッションだけではない。我先にと新しい技術を取り込んでいく日本の同業各社の勢いを目の当たりにして、マークはアメリカの製造業の遅々とした動きに焦燥感を強めていた。

ミルウォーキーの本社が海外展開を決定して事業部に指示したところで、事業部には事業部の都合と限界があった。進出を支援する体制を整えるだけでもかなりの時間がかかった。これはと思う従業員に日本支社の立ち上げに行かないかと打診しても、日本行きをキャリアップのワンステップをとらえる人は少なかった。地方都市で生まれて、近間の製造業で働いている人たちにとって日本は遠すぎた。家では日本製の家電製品に囲まれて、走れば小さな日本車に追い越されて、もうフジヤマでもなければ芸者でもないと思ってはいても、どうしたらそんなにすごい勢いで新製品をはき出し続けられるのか分からない。 その人たちにとって、日本人はウサギ小屋に住んで長時間労働をいとわない、なにか奇妙な国だというイメージぐらいしかない。

後年、日本メーカのアメリカ支社の立て直しに呼ばれてボストンに駐在していた。少なくとも三年はかかるだろうと思っていた立て直しが一年半ほどで目途がたってしまった。アメリカの販売体制が整ってきたら、ヨーロッパの販売体制が引き起こしている価格戦争の影響が目立ち出した。日本の本社にヨーロッパの販売体制のたて直しを依頼したが、埒が明かない。しょうがないから、ヨーロッパの販売体制を整理すべく、毎月のようにミュンヘンやフランクフルトやブラッセルに飛んで、ブラッセルに開設する支店長候補と面接をくりかえしていた。日本の本社がやらなければならないことを、なんでアメリカ支社がと思いながらも、本社に任せられる人材がいない。ある晩、最有力候補とブラッセルのレストランでビールを飲みながら、お互い腹の内の探り合いをしていた。雑談もどきにからめて日本に対するイメージを訊いた。人種差別のないところはないが、人間関係を上下関係でしかみれない人では困る。

「ジャパンなー、遠いいな。アジアのどっかにある小さな島国だ。家電製品もあるし、最近は車も目にするようにはなったけど。イメージねぇ、やっぱり芸者にフジヤマかな」
二〇〇四年の夏の話で、相手はアメリカの画像処理メーカのヨーロッパ支社で六年近く働いている北ベルギー人(フラミッシュ=オランダ系)。仕事で本社のボストン郊外にも、展示会でシカゴやデトロイトやロスにも何度も行っている。三十半ばの脂の乗り切った技術屋で、国境を越えた仕事の多いベルギー人のなかでも世界に明るいほうなのに、その程度の認識しかない。

インターネットが普及しても、情報を見に行く必要を感じない、文化としての田舎の生活をしている人たちにとっては、今も昔も母語で済ませる生活があるだけでなにもかわらない。変っていないことに驚くこっちの態度に何を驚いてるんだと平然とされることも多い。情報格差が大きくなっているということだろうが、知っている人は知っている、知らない人は、知る必要のない人は、何時まで経っても知らないままでいる。

純粋にアメリカの製造業のなかで生きてきた、世界知らずの人たちが日本支社の立ち上げにとりかかった。アメリカの科学技術を上手に活用しているだけのミニアメリカを想像して日本参入のシナリオをかいて、いざ来てみればマックもあればデニーズもある。なんだかよくわからない店も多いが、それなりのホテルに泊まってアメリカの延長線に日本の香りがまとわりついたような日本の生活が始まる。

アメリカでやってきた体制のミニチュア版をつくればいいだけだ。モノを売って技術サービスを提供するということでは何も変わらない。平気で価格戦争をしかけてくるローカルキング(大手日本メーカ)もいるけど、そんなものアメリカにだっているし、今迄やって来たことにちょっと手をいれればいいだけだろう。思っていることに大きな間違いはないが、それでどうにかなるほど日本はあまくない。

アメリカから派遣された駐在員との雑談のなかに、象徴的な話があった。
「ビッグスリーを相手してればメシを食えた時代は終わった。ビッグスリーの落ちた分を日本の自動車でたたき出さないと、メシの食い上げになってしまう」
この話の背景に気がついたのはマークだけだった。トップマネージメントも含めて何人もが日本にきたが、日本の自動車メーカから日本では当たり前の要求を突きつけられるたびに、無理難題を押し付けている、門前払いをしているとしか思わなかった。自分たちも落ち続けていたビッグスリーの文化にどっぷり浸かっていることに気がつくまでに十年以上かかった。経営陣で自分たちの問題をはっきり認識してたのは、知っている限りでは開明的なVP一人だけだった。彼はアメリカには長いが、イギリス人だった。

ビッグスリーとは、アメリカの巨大自動車メーカGMとFordとChryslerの三社のことで、七十三年の第一次オイルショックにみまわれるまで、ヨーロッパや日本からの小型乗用車の進出に本気になって対抗しようとはしなかった。小型乗用車は販売価格が安いしマージンも薄いから、忙しいだけで大した儲けにはならない。そんなものはあいつらに任せておいて、儲かる大型車に特化した方が得策だ。それはメーカだけでなく系列のデーラーも金融機関も同じ考えだった。その時点においては実に合理的な判断で、どこにも見落としもなければロジックの欠陥もないという怖ろしいことが起きていた。(後日コンサルやビジネスグルが分かったようなことを言っているが、すべて後智慧のゴタク以外のなにものでもない)
そこに、まさかの第二次オイルショックが七九年に起きて、アメリカにおいてですら、ガソリンをまき散らすアメ車と揶揄された。アメリカの誇りであり豊かさの象徴だった大型車に乗り続けられる人口が激減した。

『豊かな社会』でガルブレイスが明るい社会を予言したが、出版されたのは五八年で、すでに歴史的書物になっていた。一度常識のようになってしまった社会感は簡単には変らない。アメリカは二十年以上も前の産業構造や老朽化した生産設備に硬直化した生産体制と労働体系をひきずっていた。当然のこととして、ヨーロッパ車や日本車に対抗できる燃費のいい乗用車を開発もできなければ、生産も出来ない。
シェボレーがモンテカルロ(車種名)を戦略車種と決めて、B210(日産のサニーのアメリカでの車種名)やカローラより室内は広いし燃費もいい、それに千ドルも安いとテレビコマーシャルを朝から晩まで流していた。見た目もスポーティで、宣伝文句につられてという人も多かったと思うが、アメ車にダメ押しをするようなかたちになった。
付いてしまった脂肪は落としにくいのに似ている。急激なダイエットは健康障害を引き起す。上手にコストダウンすることを怠ってきた文化(?)のもと、新車が半年でラジエターに穴が開いて冷却水が漏れる。赤信号で止まるとエンストを起こす。トランクが開かない、閉まらない。室内灯を切るタイマーが故障してバッテリーが上がってしまうなどというトラブルはまだかわいいもので、運転していたら、シフトレバーの握りがすぽっと取れてしまう。どこにシフトしても前進しかしない。七十年代末から八十年代にかけて、アメリカ車を買うというのはトラブルを買うということを意味していた。

ACは八十年代初頭に日本支社を開設した。そこにはご同業が数十年かけて作り上げてきた販売体制があった。営業テリトリーを地域で分割して、それぞれの営業所と営業部隊を配置する。顧客にモノやサービスを提供する営業体制は、一次代理店とその下の代理店にまかせる。これは、アメリカを含めてどこにでもあるもので、販売体制だけをみれば日米に大きな違いはない。

販売体制はアメリカでも日本でも似たようなものだが、営業部隊を構成する営業マンのありかたが大きく違う。ACが日本で犯した最も大きな誤りは営業マンのありようの違いに対応できなかったことにある。
日本支社の任務ははっきりしていた。「日本でACの製品を販売し技術サポートを提供する」 言ってしまえば、それだけでしかない。新しい技術や製品の開発なら、社内でほとんど完結できるかもしれないが、販売とサポートは代理店やエンジニアリング・パートナーとの協力体制が欠かせない。
大手商社から本部長クラスを、専門商社や代理店から部長や課長や実務部隊を招いて営業部隊を構築した。彼らは日本の商習慣のなかで経験を積んできた人たちで、この人たちが作り上げることができる営業組織も経験してきた組織と同じ文化を引き継いでいる。そこでは、個々の営業マンの実績は今期のインセンティブと翌年のベース賃金に影響はしても、今手にする月々の給与にはなんの変化もない。

アメリカの営業マンの固定給は二割程度でしかない。八割方は売上に直結したインセンティブが占めている。アメリカの営業マンはサラリーマン化した日本の営業マンとはまったく違う人種で、企業に属していてもフリーランサーのような気質がある。アメリカのセールスの社会ではサラリーマンでは生き残れない。誰もが「嚢中の錐」であることを求められる。自分の才覚をたよりに目先の金を貪欲に追いかける人たちが「セールスのプロ」として社会的経済的地位を獲得する。そこには、巨大企業とのパートナーシップを仕切って、CEOに匹敵する所得を得るものまでいる。
業界に精通した営業マンのなかには、仕事仲間とのチームプレーで客に仕事を紹介して、その仕事で自分の製品を使ってもらうという迂回作業を当たり前のようにしていく人たちもいる。日本流のお堅い仕事をしてきている人たちの目には魑魅魍魎が暗躍しているように見えるかもしれない。

営業マンの目的は只一つ、売り上げをあげることにある。営業マンにとって時間は売上に直結する。文字通り「Time is money」の世界で、営業効率の悪い営業マンは生き残れない。効率を上げるべく、営業マンは売りやすい、手離れのいい、トラブルの少ない製品に注力する。
ACにはざっと見ても十以上の製品事業部グループがあった。どんな製品を開発したところで、営業マンに売りにくいと判断されたら売ってもらえない。売ってもらえなければ、事業として成り立たない。
製品事業部にとって営業マンは唯一の客で、営業マンの数は限られている。そこから製品事業部間で営業マン(の時間)の取り合いが起きる。市場で評価してもらえる製品を開発しただけではすまない。営業マンへの分かりやすい製品紹介セミナーやトレーニングに様々な販促資料の提供も欠かせない。価格競合できない、仕様の劣る製品やトラブルの多い製品も、技術サポートを十分に提供しない事業部も営業マンから相手にされない。唯一の客である営業マンの評価が事業部の将来を決める。

産業社会の歴史の違い、あるいは歴史上の現時点の状況が、日本とアメリカの販売体制の違いを生み出している。「モノがあるから売れる社会」でルートセールスが当たり前の日本と、「売れるからモノをつくれる」という社会に移行して、営業マンが事業を牽引するアメリカの違いがある。どっちがいいの悪いのではない。社会のなりたちが違えば、営業マンのありようにも違いが生まれる。

ACにはアマゾンやアップルのように市場のルールを変えるような力はない。そんな会社が社会と営業マンのありようの違いに気がつかなければ、あるいは無視すれば、日本市場への進出は支社を開設しましたというまでで終わる。多くの場合、問題はこの両者の違いを認めたとして、はたして何をどうできるかにある。
日本支社にアメリカ流の営業マンを求めたらどうなるか。ブローカーのような危なっかしい人たちの集団になってしまうだろう。では「組織のメッセンジャーボーイ」のような仕事しかできない、しようとしない日本の普通の営業マンたちにアメリカ流の仕事の仕方を求めえるのか?その人たちを指揮できるマネージャはいるのか?
アメリカ流の営業体制が日本の客に受け入れてもらえるのか?あるいは日本の普通の営業マンが日本流の仕事のしかたで、アメリカの営業マンと同じような営業実績をあげられる体制をアメリカ本社が日本支社に提供しえるのか?

製品はアメリカ市場の要求に応えるかたちで開発、製造されている。日本の同業が提供している製品に慣れている客にしてみれば、いくら慣れても違和感が残る。日本市場向けの製品でも開発しないことには、大きな改善は望めない。
製品としてはあるものしか売れない。そこにその製品を客に提供する販売体制までアメリカ流を持ち込んだらどうなるか? 製品だけでなく販売体制から取引習慣までアメリカ流だったら、日本の客としては、そんなもの無理してまで採用する必要はないということになるだろう。商習慣の違いの例を一つあげておく。アメリカでは、検収の一月後一括払いが常識で、日本でよくある支払い条件「月末締め一ヶ月据置百二十日約束手形」などアメリカでは想像もできない。支払据え置きによって生じる金利は、本来支払い側が負担するものであって、それを受け取り側に押し付けるのは公正な商取引とはいいがたい。

使い勝手のよくないアメリカ製と付き合いやすいとはいえない営業体制でも、日本の装置メーカがACの製品を採用しなければならないことがある。海外の客(装置メーカからみればエンドユーザ)、たとえば、GMやP&GがACの製品を搭載することを引き合いに明記していることがある。大手エンドユーザは、機械装置メーカの都合で制御装置を持ち込まれることを嫌う。工場内の制御装置を限定して自社の保守体制を効率よく運営しようとのことで、海外進出をすすめている日本の機械装置メーカは譲歩を強いられる。

日本市場で日本の顧客がのぞむ製品とサービス、それを提供する販売体制をと考えると、日本のご同業の販売体制と同じあるいはよく似た体制を構築するしかない。営業部隊は日本の商社や代理店からの転職組、そこにご同業の二次代理店を代理店と認定した販売網ができあがる。似たような製品を扱ったことのない企業や組織は代理店として使えない。ご同業の一次代理店は競合する他社の製品を扱えない。代理店の候補として残るのは、ご同業の縛りのない二次代理店しかない。

日本のご同業が数十年かけて構築してきた販売組織網のミニ版が手本としたご同業の販売組織に対抗できるわけがない。それで日本支社が成り立つと考えるのは、そんなところならそれなりの地位にいられる、同業にいては昇進の可能性のない転職組しかいない。日本市場には合わない製品と、日本のご同業とは対抗しえない販売組織のセットができあがる。
日本支社は、アメリカの顧客からのご指定案件と海外案件に活路を見出ことでしか生き残りようのない。海外向けの案件をメインとした営業政策のもとでは、代理店は納品代行と手形割引ぐらいの役にしかたたない。これが日本市場への参入を試みて設立した日本支社の現実だった。

最後に気持ちの整理もふくめて
何もないところから始めてかたちになってきたと思ったら、また外された。今までの延長線ではどうにもならないから出番が回ってくるノンキャリアにしても、いい加減にしろと思っていたら、予想だにしなかった買収劇で跡形もなくなった。

上手く回っているように見えても、ちょっと後ろに下がってみればどこもここも問題だらけ。そのままではいつまでも続かない。ところが自分で作ったか深くかかわりすぎた組織の問題を問題と思う人はなかなかいない。問題だと気がつくまでの能力がある人の多くは、その問題があるからそこで生きていられることを知っている。問題を解決するということは自身の政治生命を絶つことになることも分かっている。個人の問題というより組織の問題で、組織の文化に染まりきった人では解決できない。解決するには現状を批判的に見ることが習い性にまでなった人を充当するしかない。そんな人が解決に動き出せば、問題のお陰でいい立場にいる人たちの存在理由を根柢から突き崩すことになる。

立て直しや立上げを進めれば、上司や同僚が立場を失う。当然のこととして、周囲の多くの人たちから蛇蝎の如く嫌われる。嫌われたくはないが引くに引けない。引いたら自分を殺すことになる。三年後五年後の先をみて、組織を作り上げていくが、出来上がった時にはすでに崩壊が始まっている。そこそこにしてもできあがったものを濡れ手で粟で引きついだ人たちは組織づくりの設計思想を理解できない。設計思想を知らずに見た目の理解でマージメントなんかできるわけがない。組織は生き物で、引き継いだ組織の次の進化の設計思想を作り上げる人でなければ、出来上がった組織は時間とともに閉塞していって瓦解する。

個人としてもマネージャとしてもチャレンジできる機会をもとめて、できるかぎりのことをやって、それでダメならダメでしょうがない。拾うものは拾って、あとは拾ったものを次にどう生かすか――どこにチャレンジの場をもとめるかを考えるしかない。
「今日があったように明日がある」では拾えるものも拾えない。「明日の自分は今日の自分を乗り越えていなければならない」と尻を叩いて走り続ける。走り続けられれば何かがある。そんなことをしていて、ある日気がついた。一従業員に過ぎないが、オレはいったい何をしているのかとあらためてみてみれば、請負家業の傭兵のようだった。
2021/10/2