基本取引契約書

日本の会社同士の売買契約の経験だけしかない方々の多くは、よくある基本取引契約書が本質的に抱える問題になかなか気が付かないのではないかと想像している。あまりにも当たり前のこととして購入側の企業から販売側の企業に基本取引契約書が提示され、販売側の企業から提供される情報が購入側の企業で機械的に処理され効率よく売買契約の基本部分の合意が取り交わされる。高度成長期が必要とした作業の標準化と社内研修で養成できる程度(失礼)の専門家による簡易プロセスで処理できる体系が出来上がっている。
基本取引契約書には、購入側の企業が遭遇するであろう全ての購買ケースが一冊の小冊子にまとめられている。購入側の企業は、画一的に全ての販売側の企業にその小冊子に規定されていることへの合意、あるいは規定に従った情報の提示を要求する。ところが、販売側の個々の企業に対して小冊子の記述はごく一部分しか該当しないし、1冊で全てのケースをカバーしようという考えから特殊事情に関する規定はありようがない。ただ、両社の担当者も慣れたもので、余程のことでもない限り、特殊事情は特記事項のような扱いで事務的に処理できる。
これが日本企業と海外企業の売買契約の類だったらどうなるか?まず、共通言語は英語で、よほど特殊な場合を除いて日本語のケースはまずない。海外企業が日本語では本国との情報を共有できないから、どうしても英語になる。次に契約書の類なので、まともな外国企業であれば必ず法務の専門家が関与する。法務の専門家、多くは弁護士が契約内容を自国(一般に)の法律に対する遵法と自社の利益の視点でチェックする。法務の承認なしでは、たとえ社長といえども契約書にサインはできない。遵法の確認なしで(リーガルチェック)、自社の不利益になりかねない契約書にサインすれば、万が一の時に背任として責任を追求されかねない。
このような場合に、日本の会社同士の売買契約と同じ感覚で基本取引契約書を外国の企業に提出したら、どうなるか?外国の企業が日本支社(日本における法人)だったとしても、日本語で書かれた基本取引契約書は殆どの場合そのまま拝受できない。自社に該当する部分だけを英語に翻訳して、営業面での特殊事情からなにまで細かい注記や要望を添付して、法務および上部機関にリーガルチェックを依頼することになるが、通常はこの方法はとらない。一般的には、外国企業の法務が汎用の雛型にその都度の特殊性を追記した専用の契約書案が外国企業から日本企業に提出されるかたちで書類レベルの作業が始まる。
もし、日本企業から提供された基本取引契約書から始めるとどうなるか?英語に翻訳されたものをベースに法務がチェック、変更、追記をするが、殆どの場合、オリジナルの翻訳が占める割合は微々たるものになる。書類の性格上、基本取引契約書は買いたい、売りたいという担当者同士が交わす書類だが、法務には、万が一何か問題が発生した場合に自社の責任範疇を出来るだけ限定した書類を作成する責任がある。そのため、書類は一般の人には長文で重く専門的なものとなる。
購入側の企業の都合を書き並べた粗筋のような基本取引契約書が購入側の企業の購買担当部署から販売側の企業に渡って、英語で書かれた重い専門的な法律文書が売買契約の逆提案として購入側の企業の購買担当部署に戻ることになる。この時点で購買担当部署が処理できる書類ではなくなってしまい、定形書式で業務を遂行してきたと自信を持っていた?購買担当部署の出番がなくなる。購入側の企業の法務がチェックし、自社都合のよいように編集して、逆提案として販売側の企業に返信される。販売側の企業=外資は、この類の書類のやり取りには慣れている(慣らされている)。この過程のなかで販売側の企業の営業部隊は、売買契約成約のために営業戦略の視点で法務を押し返す交渉をする。
日本企業の購買部隊は、日本企業間の購入手続きを画一的な方法で業務として事務的に遂行することを求められてきた。定形化した情報処理でやる事もやり方も標準化され、処理効率を優先し最適化してきた。そこに、突然、英語で、標準化した処理方法では扱えない、その都度、特殊状況や条件がつきまとう契約交渉から処理を求めても酷というものだろう。
大手家電メーカが軒並み大きな赤字決算で一騒ぎあったが、その直ぐ後で大手家電メーカの社長がテレビのインタビューに答えて、今まであまりに自前主義過ぎた、これからはもっとグローバルに展開するという短いコメントをなされた。あまりに短いコメントなので何を意味しているのか、意図しているのかは状況に通じた人達にしか分かりにくい。が、このコメントでその家電メーカの株価が上がったという報道があった。コメントの主旨は、自社で、あるいは自社の海外工場で製造することに固執するのを避けて、グローバルサプライチェーンをもっと積極的に活用する方針ということらしい。
この方針は“言うは易いし、行うは難し”の見本のように聞こえる。上から下まで、報道機関まで含めて“ものづくりの日本”をキャッチフレーズのように言い続けるなかで、効率重視の画一化した事務処理に特化した購買部隊がグローバルサプライチェーンを活用する実務担当部署としてその準備ができているようには思えない。単に業務内容の変更ではなく、能力から文化まで今までとは大きく違ったものが求められる。基本取引契約書を使っているか、使うのを止めたかで、企業のグローバルサプライチェーン活用に対する姿勢の一端が見える。