意見を言え

先月、時間だけはかかったが、結論らしい結論がでなかったと言うより、結論を出そうとしなかったと言った方がいい会議の延長線のような会議が開かれた。出してしまえば、即、決まってしまうことででしかない議題なのだが、一向に決まる様子がない。議題に直接関係し、責任を持って決めなければならない関係者は2人しかいないにもかかわらず、前回と同じように社長や数人の役員も含めて20人近くも出席した。
会議を召集した品質管理部隊の担当者から先月と同じように話し合う問題が要を得ないかたちで提示され、前回のまとめが報告された。やらなければならないこともはっきりしているし、対策として取りうる選択肢もいくつもない。決めなければならない立場の人が決めれば、あえて会議をする必要すらない問題について、また話し合いが始まった。
議題にはおよそ関係ないにもかかわらず、出席を要請され、いやいや出席した。なぜ、この会議に出席しなければならないのか分からないが、出席しないと煩いので、時間の無駄と思いながらも偶然帰国していて海外営業を代表するかたちで出席する羽目になった。
前回と同じように直接関係しない、いつも口数だけは多い3人ほどの出席者が、もし、xxxだったら、もし、yyyだったらと、万に一つの可能性すらあり得ない状況を想定して、ああだの、こうだのと他人事のように話が始まった。確かに直接責任のある立場にはいないので、他人事なのだろうが、話のどうどうめぐりが人生のような3人の愚にもつかない話が続く。いつまでたっても、問題に直接の責任がある数人がその3人の話にのって、本題に踏み込まない。相手の話に合わせるだけで、自らが状況をどう見て、どのような対策案を考えているのか考えを言わない。
その他の出席者は、ただ、ぼーっと物理的にそこにいるだけで、何も発言しない。まるでこうして時間を潰していれば、仕事をしなくても給料をもらえるとでも考えているのではないかとすら思えるほど、椅子に座って、ちゅうを見ている。何をどう見て、どうすべきじゃないかという自分の考えを誰も言わずに、誰かが誰が何をするのかを決めてくれるのを待っている。
出席者全員が、少数は意識的に、大多数は無意識のうちに、そうすることで、決定に関与したことによって生じるかねない責任が自らに降りかかってくることを避けようとしている。運悪く?決められた対策を実施する当事者にされても、決定に関与していないのでという口実のもとに、実施した結果に関しての責任は自分にはないとの、あいまいではあるが態度を取り続ける。社長以下、役員も含めて、常にあいまいな態度をとり、自分の意見を陳述することはない。
こうして何が決まったのか分からない会議が終わる。その結果というとつじつまが合わないが、いつものように、いつのまにやら対策をせざるを得ない人が決まってか、お人よしが責任を押し付けられるようなかたちで、自分のできる範囲で、しばし対策にもならない対策が講じられる。こうして、また似たような会議が召集されて、また似たような結果になる。
この手の会議に引っ張り出される度に、状況はこうこうこうで、取りうる対策案は、これとこれしかないんじゃないかと明言せざるを得なくなる。直接の責任がある立場ではないので、じっと待っているのだが、そうでもしなければ、何の進展もないまま、貴重な時間を無為に過ごすことになると思ってのことだが、それでも結論を出す責任のある、あるいは権限のあるものが決めない。決めようとしないまま、時間切れで終わる。こんな状況に3年もの長きに渡って押し込められた経験から次のような結論めいた考えに至った。
意見を言わない人は会議に出席してはいけないし、させてはいけない。そのような人は会議に出席する資格がない。意見を言うところから責任が生じる。意見を言わないということは責任を取る意思がないということに等しく、社会人として失格だ。たとえ拙い考えでも、意見を言えば、至らない点を指摘して頂ける機会が得られ、そこから成長しうる。何も言わなければ、相手からみれば、何も考えていないとの何も変わらない。