コンプレックス

コンプレックスのない人はまずいないと思う。コンプレックスというと一般に劣等感の方だけが思い浮かべられるが、その対極にある優越感もコンプレックスで、この両者が絡み合って人の言動の基となる深層心理の一角を構成していると思っている。
人によっては劣等感だけ、あるいは優越感だけしか持ってないのでないかと思えるほど、一方が強く現れているケースにも遭遇するが、多くの人は在る状況では劣等感、違う状況では優越感という感じで両方持っていると想像している。しばし、状況の違いではなく、そもそも優越感も劣等感も人に対しての感情であるため、ある同一の状況下で、ある人に対しては優越感、別の人に対しては劣等感という具合の同時の両方が顕在化することもある。
どちらも生のままで発露が状況を好転させることも、人間関係をよりよいものにすることも希なので、できるだけ発露しないように抑えるか、できればプラスに作用するように加工したかたちで使うインテリジェンスが望まれる。とは言うもののどちらもなかなか自制できるような性質のものじゃない困りもので、往々にして散々注意していたにもかかわらずポロポロと制御の手のうちからこぼれてしまう。
どちらも困りものであることに違いはないのだが、劣等感は、そのまま放っておけば人を卑屈にしてしまう。しばし、それによって鬱積されていた感情を抑えるたがが外れたときに個人にとっても組織にとっても破壊的状況に落とし入れることがある。しかし、扱いかた次第では、眠っていた潜在能力を覚醒し、予期していた以上の能力を発揮させる手段にもなりうる。劣等感を生み出している状況によって押し込められてきたエネルギがあって、はじめてチャレンジャーとして現状を否定し、新しい状況、次の時代を作り出せる。
ところが、もう一方の優越感の方はどうかというと、最も有効に作用したとしても精々優越感を持っている人にゆとりのある態度をとらせる程度しかない。優越感を体感することが相手にもたらすものは、害の最も少ないものでも羨望、嫉妬になりかねない。歴史上優越感を持っている人にその優越感を持つことを可能としているものが、優越感を持ち得えず劣等感を持つことを強要されている側の犠牲や負担によっている場合も多い。端的な例が植民地支配者と被植民地住民の関係にある。優越感が生み出す弊害は数え切れない。優越感は人を傲慢にし、周囲に対して鈍感になる。人の話は、まして自分より下の人間からの話となるとまともに聞こうとしない。万が一、話のロジックが通っていると、自分の優越性に対するチャレンジと受取りかねない。
そのどうしようもないない優越感をさらに御し難くしている特長が二つある。一つ目は、たとえ優越感を持ちうるに至った経緯がどのような視点から見ても正当といえる場合であっても、優越感を体感することにより相手側に生じるであろう負の産物に大きな違いはないということにある。俺は、血の出るような努力の末に今日の立場を手に入れたのだという正当な主張と感情、それに基づき正当に優越感に浸る権利があるという主張。誰もその主張の正当性を否定はしない。否定はしないがその浸ることが他人に全く無関係でなされるわけではないところに不幸がある。優越感を味わうための相手はしたくないと誰もが思うが、優越感に浸るには、どうしても他人との何らかの比較をせざるを得ない。なぜなら、優越感は他人に対する比較優位を確認して、はじめて体感しうるものだから。一つの例として見栄がある。見栄は優越感を味わう手段の一つで、常に他人の目に対して行われる。鏡の前に立って自分一人で張れるものではない。
御し難くしている二つ目の特徴は、優越感を感じる側が感じていてもいなくても、相手が優越感を感じる側が感じている、味わっていると感じたら、相手はイヤな気持ちになる。ちょっと性格は違うが、優越感には差別と似たようなところがある。差別はする側は差別をしていることにしばしば気が付かない、しているつもりはないが、される側は気が付く、あるいはされていると感じる。差別は、される側がされたと思えば、している側がしたと思わなくても差別があることになる。
ここまで考えてくると、一個人としてもマネージメントとしても心がけなければならないことがはっきりしてくる。 まず、劣等感をバネとして上手く使って個人の、組織の潜在能力を引出すこと。次に、優越感は、マネージメントであれば年齢も地位も上のため注意しても味わっていると周囲から見られることが多く、どんなに注意しても避けられない。
そこでしばし、それを相殺するために、相手にも優越感を味わせる、体験をさせる工夫をする。おだてるのは最も伝統的な方法に他ならない。よく周囲を見ていると、相手にこの優越感を味わせるのが上手な人がいる。関心の至り。人誑(たらし)しだ。 ただ、表面的なテクニックに走りすぎれば、よほどのお人好しでもいつかのその狡猾さに気が付く。何事もほどほどにということになる。しかし、この相殺案に考えが至るのはよほどの人で、多くの優越感に浸ることのできる側の人達は、競って優越感に浸る競争でもしているかのごとくの言動が目に付く。寂しい限り。