まるで租界のなかで

随分前だが、日本の某大手制御機器メーカの海外支店の責任者から、支店が担当している数カ国での販売をさせて頂けないかとのお話を頂戴したことがある。こちらは、メーカとして該当地域には独占販売権を与え、販売を任せていた代理店があったので、丁重にお断りさせて頂いた。全く同じような打診を別の制御機器メーカの代理店から頂いたことがある。その代理店は日本の一地域では代理店としてお世話になっているので無碍にもできなかったが、最終的にはお断りさせて頂いた。お話を頂戴した該当地域は市場特性に合わせ直販、パートナー経由、一部現地の代理店経由を組合わせて市場開拓を進めているさなかだった。
お話を頂戴した際に先方の営業体制をお聞きして、正直驚いた。どちらの海外支店も営業部隊は、ただの偶然の一致だが、支店長も含め7人。そのうち6人が日本人で、現地人は1人だけとのことだった。主要顧客をお聞きして、また驚いた。主要顧客は、全てといってよいほど日系企業に限られていて、現地の市場を開拓している様子は全くみられない。まるで戦前で言えば、租界のなかで生きているようなもので、日本の会社から日本の会社への販売が日本という国ではなく、外国に出て行っただけに過ぎない。製造業の生産基地の海外移転が加速するなかで、客に引っ張られるかたちで海外営業拠点を開設することになったということだけなのだろう。
開設しなければ海外に流失したビジネスがそのまま企業の受注/売上げの純減になりかねない。しかし、日系企業のお手盛りができたとしても純減を防げるだけで、全体の売上げ増加には結びつかない。それだけではない、営業マンを日本人の駐在員でまかなえば、営業経費がかさむ。かさんだ営業経費がそのまま利益を食ってしまう。海外営業拠点の利益の増大を図ろうとすれば、売上げを増加するか、マージンを大きくするか、それとも営業経費を削減するのが一般的だろう。売上げを増加するには販売品目を増やすか、新規顧客を開拓するしかない。販売品目を増やすといっても、市場は単品の製品ではなく、ソリューションを求めているであって、納品代行のようなコンポーネントとしての製品提供に大きな価値を認めなくなっている。そのため、扱い製品を増やすにはその度に組織をあげての学習が必要となり、時間もかかる。ましてや、現行製品ですら、ソリューション提供の営業ができていない組織に扱い製品を増やすのは付加価値創造の視点からみれば逆行以外のなにものでもない。
視点を日本市場における海外資本の営業体制に目を向けると、日本市場に参入している外資と海外展開を図っている日系企業の営業部隊の違いがはっきりする。想像してみて頂きたい。日本に進出した欧米企業の営業マンのほとんどが欧米人である会社があるか?日本の人件費は欧米諸国と比べて決して安いわけではないから、日本人営業マンを雇うことで営業経費を抑えようとしているのではないことは明白だ。なぜ日本人の営業マンなのか?日本の企業に製品を販売しようとしているからに外ならない。
では、なぜ日系企業の海外販売拠点が現地営業マンをつかって、現地市場の開拓をできないのか?外資が日本でできて、日系企業が海外でできない。多くの場合、答えは簡単だ。日本の企業では、組織的な教育体系があったとしても、それは簡単に形式知にまとめられる分野に限定され、複雑系の暗黙知を形式知まとめようとしないできた。(あきれたことに、経営者の中にはこともあろうか経営は芸術だとうそぶく輩までいる。せめて職人芸くらいまでなら痴れ者のばか話と聞き流せるのだが、)
製造ライン、エンジニアリングなど比較的計算にのりやすい分野では標準化をすすめ、知識を形式知にまとめ上げ、従業員間で広く共有化することで合理化を図ってきた。そのため、生産拠点の海外移転は急速に進めることができた。ところが、営業、企画などの分野では、経験などで得られた知識を形式知とする努力どころか、そうしなければならないという認識もないまま、ほとんどの暗黙知のまま放置してきた。暗黙知のままでは日本人から日本人への知識の移転すら容易ではない。ましてや進出した現地の比較的安価な労働力を駆使して現地市場の開拓などありえようがない。言語の障壁を営業部隊を現地化し得ない理由にあげる人も多いだろう。しかし、日本市場に進出している外資をみれば、それがいい訳にもなっていないことがはっきりしている。経営陣は、いつまで日本人による日系企業に対する海外営業を続けるつもりなのだろう。まず、非エンジニアリング分野の知識を形式知にすることから始めてみてはいかがだろうか。
p.s.
と思っていたら、舶来の形式知らしきものがMBAというお題を冠して入ってきた。お題を冠して跋扈している感のある方々のご高説?をいくら聞いても、よくて表面的なスキルがあれこれにしか見えない。使えるものは使えるが、使えないものは使えない、使えるものをいつ、どう使うかが問題という、当たり前のことで。それでも、もしかして、こっちの目が曇っているのかと多少不安になることがたまにはあるのだが。