何に対する対価なのか

大量生産、薄利多売の一般大衆消費材では、小売価格に対して製造原価がかなりの割合を占めているだろう。そこでは、薄利でも規模の経済によってビジネスとして成り立つ体系がある。それとは対照的に、製造ラインで使用される製品では、多種少量生産に加え、しばしば案件やプロジェクトごとに特殊仕様対応が求められることもあって、販売価格に対する製造原価が数分の一程度−たとえば五分の一や四分の一−というのが普通という世界もある。
一般大衆消費財では、巷で言われるブランド戦略のもとに薄利多売とは縁のない世界もあるが、製造ラインで使用される製品にはそのようなブランド戦略も、個人消費に見られる見栄の消費とも無縁で、機能と性能、そして価格が厳しく比較される。例として適切ではないかもしれないが、その世界では、4人まで乗れればいい乗用車であれば、ベンツもセルシオも候補としてすら挙げられることはない。軽自動車で機能として十分な車種のなかで最も価格の安い物が採用される。ピザのデリバリーに50CCのスクータが使われても、乗用車はあり得ない。
何をもってして製造原価というのか?何を、どこまでを製造原価の要素として勘定に入れるかで製造原価も変わってくる。製造原価に勘定する範囲を大きくしたら?例外はあるだろうが、多くの場合、それでも製造原価は売値の数分の一に過ぎない。
見栄の購買はないし、ほとんど全てのケースで似たような製品を複数のベンダーから購入できるので、ぼった商売は成り立たない。にも拘らず、製造原価の数倍の価格で販売してきているし、購買してきている。提供している“もの”、されている“のも”は、物としての製品と、購入検討時からその機能や性能の評価や実験、さらに使い方のトレーニングなどの付帯サービスの二つになる。競争は厳しく、しばしば値引き合戦の様相を呈することもある市場なので、売る方は製造して提供するまでのコストや労働に対する適正な対価として売値を提案しているはすだ。買う方も厳しく比較検討しているので、ふっかけられている可能性はないはずで、適正な対価としての購入価格だろうと納得している。
しかし、納入される物として製品の製造原価は適正と考え支払った金額の数分の一ででしかない。数分の一の残り − 残りと言っても、こっちの方が大きいのだが − に対する支払いは一体何に対する“適正な”対価なのだろう?適正であるかぎり、買う側が物として提供を受ける製品以外の全て −売る側が提供する付帯のサービス、様々なサービス −営業やサービス部隊の電話の受け答えから、修理部品の受け取りや発送なども含めた売る側の企業の全て経済活動に対する買う側の承認のようなものがあるはずだ。そうとでも考えなければ、コストプレッシャーが厳しい今、買う側は、製品製造原価の数倍の価格を適正な価格だとは認めないだろう。逆から見れば、製造原価の数倍の価格が適切だと買う側が納得する様々なサービスを売る側が提供してきていると言うべきなのかもしれない。
いずれにしても物として製品以上に大きな付加価値が取引されていると考えざるを得ない。売る側にも買う側も暗黙のうちに認めている、この大きな付加価値が見積りや発注書に明示されることは希で、どこかに紛れ込んでいる。明示されることがあまりに少ないためか、不幸にして、この物としての製品以上の付加価値を創造している人達がそれに気がついていない。 さらに、経営陣になかには、この明示されていない大きな付加価値を創造している人達が企業の資産であることに気が付かず、間接部門のコストとしか理解し得ない人達がいる。コストと考えて削減に走るのか、それとも、そこにこそ更なる付加価値を生み出す領域があると考えるのか?市場でどのように認知されるか、させるかも含めて、最終的には付加価値を提供する側の経営陣の市場認識次第なのだが。変わりそうな予兆が見えないところに“もの造り日本”がある。