規則の内と外

何をするにも規則の通りや前例に従ったやり方ででしかしようとしない人達がいる。規則や前例に従ったらできないことも、規則をちょっと踏み越えればできるのが分かっていても、踏み越えようとしない。なんとかして、しなければならない、するにはどうしたらいいかというような視点がないこともなさそうなのだが、言動から見る限りでは、規則と前例が頭のなかをスルッと一回転して、“できない”、“しない”という結論がでてくる。こうすれば、ここまでできるのではというような条件付きの結論など考えようともしない。
この、直ぐに“できないと”、“しない”という結論を出す“癖”がついている人達にとって規則や前例は、“しない”ということ、労を惜しみ責任をとらないことを正当化するための“盾”のような役割を担っていることが多い。そのような人達にとっては、常に過去の状況の反映ででしかありえない規則や前例が、現在の状況に適合していないかもしれないとなどということは、あずかり知らぬことででしかない。なかには、個人生活では新しもの好き、まるでマスコミの旬の話題を地でゆくよう日常生活を送っているにもかかわらず、仕事では、規則や前例を盾に新しいことをしない人達すらいる。フツーに考えれば、状況が問題のない範囲内での規則の読み替えを即しているような場合でも、愚直かにか小狡くか、今まで通りに固執する。私生活では、そんなものまでと思える冒険屋(?)なのに、仕事では、自分の目で見て、耳で聞いて、自分の頭で考えて何か判断することを拒絶する。拒絶すること自体が仕事ととでも考えているような節がある。
このような人達はできるだけ仕事をしたくないだけの、ただの“なまけもの”なのかというと一概にそうとも言えない。なかには、どのようなことに対しても真面目で公私にわたって頼りなる、信頼できる人もいる。ただ、この頼りには“平時限定”とでもいうのか、今まで通りの業務の範疇であれば、安心して。。。という制限がある。範疇を多少でもはみ出れば、頼りにしていたのが邪魔になる。読みようによっては、どうとでも読み得るところの読み方の話をしても、今まで通りの読み方以外の読み方をしようとしない。前例とは違う幾つもの読み方があることまで分かっているにもかかわらず、読み方は前例が決めていること。その決まっていることに対して自分ではなにもできないし、しようとしないという立場を変えない。 真面目が災いしてなのか、基本的な能力の欠如なのか分からないが自分の頭で考えて結論を出そうとしない人達がいる。
このような人達と付き合っていると、滑稽でもあり、哀れで馬鹿馬鹿しケースに遭遇することがある。散々、こうしなきゃ、こうしようと説得を試みてきたが、一向にしようとする気配がなかった。そこに、絶対の立場にいるオーナ社長が、事情をろくに理解せずに組織をいじった。新しい組織の分掌(規則)通りにことに対処しても、時間と労力のムダになるだけで、何の解決にもならない。説得を試みたやり方でやれば、問題を解決できたこと、新しい規則の通りにやったら問題解決どころか余計ごちゃごちゃするのは分かっていた。規則を盾にしようとしなかったのが、解決にならないことを知りながら、ズレきった新しい規則通りに問題解決?にとりかかる羽目になった。傍で見ている人で事情を知らない人には、何を馬鹿なことを、事情を知っている人にはまた哀れな。。。に見えたろう。
規則のなかにしかいたくない人達がいる一方で、仕事の場で規則と前例からはみ出すことに生きがいを感じるタイプの人達がいる。このような人達には、規則はしばしば過去のある時点での状況を引きずった足かせに見えないことがある。存在理由を失った足かせででしかないと判断して大胆に無視することもあるだろうが、多くの場合、そのため既存の規則を都合のいいように読みかえることで対処する(時間の制約のため)。読み替えて規則の縁をどのくらいまでなら踏み越えても、規則に関して保守的な組織内で問題にならないかを考える。
規則のなかに安住しようとして規則に縛られる人達がいる一方で、既存の規則は歴史上の産物で、今の人達が今の状況に基づいて過去の遺産を廃棄し、次の世代が書き換えるであろう今の規則を作ってゆくのが今の世代の責任と考えている人達がいる。当たり前の話だが、このような人達は、自分の責任で状況を理解し結論をだす。
p.s.
くだらん疑問だが、どっちか一方のタイプの人が圧倒的に多い社会集団もあるのかな?例えば、公共団体にお勤めの方々や新興宗教の信者の方々は?