買収の果てに(改版1)

機械設備を制御する製品やシステムを提供する業界で三十年以上禄を食んできた。転職しても市場開拓が本職で企業買収に関わるなどと考えたこともなかったのが、日本の会社で事業展開を加速するために海外企業の買収を立案し推し進めたことがある。それまで数社で買収した会社の製品の市場投入はしたが、買収に直接関与したことはなかった。企業の売り買いを本職としている人たちや、それを支える金融筋の人たちからみれば、なにを言ってるのかと思われるだろう。拙い理解ででしかないことを承知で企業買収に関わる経験を書かせて頂く。
企業買収の背景や経緯はさまざまだろうが、一般に買収の目的は自社ではもっていない、もっているものを補完するものを、自前でつくり上げるより短時間のうちに手に入れることだろう。ときには寡占を進め−競争を減らし利益を拡大するための買収もあるし、極端な場合には競合を潰すための買収もある。長期縮小傾向が続く市場では同業数社が縮小均衡を目的とした買収や合併もあるが、買収の多くは自社にないものを即得ることにある。
在籍した企業で買収の話しが出たときに、よく耳にしたのは相互補完関係にあるものをもっている企業を買収してシナジー効果で事業拡大を図るというものだった。ロジックとしては合っているように聞こえたが、買収後に起きたことは、聞いていたこととはほぼ正反対のことだった。シナジー効果で1足す1が2ではなく2位上、3にもなると聞いてきたのが、2どころか1.5にもならない。全く製品の異なる事業体で、買収相手の規模も製品の特長も、買収の背景や経緯も異なるにもかかわらず、結果としては似たようなことが繰り返し起きた。
技術的にも、価格の上でも明らかに競争優位に立てる製品を持っているにもかかわらず、販路を拡大できずにいる企業を、補完関係にあるさまざまな製品を持ち、さらに世界九十ヶ国近くに支店網と巨大な販路を持っている企業が買収すれば、失敗しようのない買収となるはずのものがである。 なぜ、失敗の可能性がほとんどないようにみえる買収ですらうまくゆかないのか。色々な可能性を考えてみたが、買収する側の企業の視点に根本的な欠陥があるとしか思えない。買収する側の企業は、買収される相手企業の果実をみて、その果実を求めて買収する。果実とは、優れた技術に裏打ちされた製品やサービスだったり、強力な販売組織網などだったりする。
果実はきちんと評価しなければならないが、果実ばかりに気をとられると、果実を間違いなく実らせるために買収される側の企業が営々として培ってきた経営体系から人事評価体系、日常業務の進めかたなどその企業としてのありよう−文化にまでなっている無形の資産を評価できない。買収で優れた製品を手に入れた、強力な販売組織を手に入れた。だが、それは買収した時点のものででしかない。市場は常に変化し続ける。買収された企業の真の価値は、実は誰にでも見える果実ではなく変化する市場に対応し、しばしば市場をリードするかたちで製品やサービスを開発し続ける総合力や販売組織とその文化に他ならない。
この無形の資産を自社では持ち得なかった、作りえなかった企業がそれを持っている企業を買収というかたちで吸収する。かたちの上では吸収できても、買収した企業には、その無形の資産を買収された企業が大事に育ててきたように育てる能力がない。そもそも、その能力があったら、買収せざるを得ない立場にはならなかったろう。
買収後数年もしないうちに、買収によって得た果実、その当時は優れた製品やサービスが陳腐化し、次の製品やサービスを開発する能力も失い、買収された企業を支えてきた優秀な人材が散逸し、残ったのは買収した企業の名前と建物だけという業界の笑いの種にされる買収劇には事欠かない。ある一時点での果実は買えても、その果実を実らせた文化−人と人との関係までは買えないという当たり前の話なのだが。とかくビジネスの世界にいると、何でも金で変えると勘違いしかねない。人によってはそう固く信じている人もいるだろうが、金次第にしかみえないビジネスの世界でも金では買えないものがある。その買えないものこそが実は企業の存在の本質だということに気がつかない買収、それも実業に関心もなければ経営能力もない金融主導の買収が後を絶たない。
買収に値する果実を作り続ける企業文化やそこで活きていた人たちの思いまでが買収という金勘定で消えてゆく。ときにはそこからは消えても文化を継承する種として新天地に飛んでいって花開くこともあるが、残念ならが、ときにはでしかない。企業買収のありようを単純なビジネスの視点に任せないで社会の視点からの政策で規制しなければ、失うには大きすぎるものを失い続けることになる。
2014/1/26