乗せる軌道は?

専業では世界でも最大手の米国系産業用制御機器メーカの日本支社でマーケティングの一員として日本市場の開拓に走り回っていた。当時、その日本支社は、日本の車載用電装部品メーカと合弁のかたちをとっていた。産業用制御機器ビジネスに占める自動車産業の比重は大きく、特に北米市場では自動車産業抜きではビジネスにならない。しかし、当時、既にアメリカのビッグ3の長期的な凋落は誰も目にもはっきりしていた。そこで、米国本社は日本の大手自動車メーカ2社のどちらかとアライアンスを組みたいと考えていた。一方日本側の車載用電装品メーカは親会社の自動車メーカも含めて、自動車産業に関係しながらも自動車産業とは一線を画した民生用制御機器事業を自動車の次の時代の事業にできないかと思案していた。
米国では、既に民生用制御機器開発の技術の主戦場がハードウェアからソフトウェアに移ってしまっていて、日本のご同業のようにハードウェアを上手に、小型に、廉価にまとめる技術がなかった。比較の問題ででしかないが、米国でハードウェアを開発すると、図体ばかり大きく、信頼性に不安のあるものしかできなかった。
そこで、日本の合弁会社と調整役として、設計基準から検査基準に至る門外不出のデータや情報を合弁相手の電装品メーカに提供し、ハードウェアの開発、製造を委託して、米国で開発したハードウェアを搭載すれば、間違いなく市場を席巻できる製品が出来上がるはずだ。さらに開発した製品は電装品メーカの製造ラインだけでなく、親会社の自動車メーカからその子会社、さらにその関連会社の生産ラインに標準採用されるはずだ。多少でも業界事情に通じた人の目にはベストカップル同士の合弁に見えただろう。
ところが、日本の最大手の自動車メーカの最大子会社と合弁会社にしたにもかかわらず、この合弁会社の本来の責務である日本市場開拓が軌道に乗る気配がなかった。乗る気配がなかったと第三者の立場で言えるようになったのは退職してから随分たってからで、一当事者として右往左往していたときは目の前に具現化した現象までしか見えなかった。情けないことに、乗る気配とではなく、そもそも乗せる軌道が分からなかったのだと結論めいたことに思い至るまでに20年かかった。
“軌道に乗る気配がなかった“とう言い方は、当時の経営陣とその後ろ楯にいた人達が自省の念を欠いたまま回想するには適当な言い草だが事実を語っていない。事実は、その人達は、乗せる軌道の”き“の字の最初の書き出しすら考えつかない知識や能力しか持ちあわせていなかった。乗せる軌道が分かる、分からないという以前に軌道というものが存在することすら想像できないのだから、軌道に乗せようがない。乗せる軌道、まず、xxxの軌道をこのくらい手直ししたあたりにこっちを乗せて、そこからyyyの方向に軌道修正してから、あっちをあそこに乗せて、なんてことを思い浮かべる、今風に言えば、Visionが全くない人達だった。
日本語が達者で日本に永住し、日本のことをよく理解されていた、裏表のない、個人としては立派な方だったが、経営陣の人選では取り返しのつかない失敗をした支社長。直属の部下として三人の本部長が彼のブレーンだった。三人のうち一人は、学生の頃から人様の税金を食い物にし、最後は米国企業にたかったシロアリのような、自己申告ではエリートだが事実はデリートの通産官僚くずれ。残りのお二人は、それぞれ某大手商社でそれなりの実績を上げられ、その結果として廃棄物になった生ゴミ。この三人がそれぞれの人的ネットワークで集めてきた部課長連中。誰一人として、業界に精通した人はいなかったし、そもそも商社や代理店ではないメーカとしてのあり方が分かる人が希だった。”類は友を呼ぶ”とはよく言ったもので、課長クラス以上は無能を絵に描いたような集団だった。
米国本社は、日本市場を理解できずに合弁相手に日本市場の理解につき教えを乞う状態に陥っていた。教えを乞われた日本側の合弁相手は、日本市場をこれ以上はないという程、非常によく理解していた。ただし、その理解は極端に自動車産業に限定されていて、他の産業の理解は自動車産業という強力な磁場で歪められた景色に基づくもので理解というより誤解に近い害の方が大きかった。要は、合弁会社の経営陣も、それぞれの親会社にも日本市場を理解し、乗せなければならない軌道を思い描ける人がいなかった。
米国本社から駐在員(平のManager)として送られてきた人達の中には優秀な人がいた。優秀な人だったが、最後まで能力を発揮できずに失意か高笑いか分からないが、皮肉の能力には磨きをかけて日本と会社を去った。ただ、彼が描きうる軌道はどうしても米国市場の特殊条件のもとで成り立つ軌道か、その影響を強く受けた軌道ででしかなかった。駐在員として、日本市場と日本支社の状態にあった軌道を描こうにも、日本人経営陣を説得し、トレーニングする能力も時間もなかった。日本人経営陣のうちでその米国人駐在員の考えや言わんとしていることを理解できる人は皆無だった。日本人で、ぼんやりとであっても軌道を思い描く能力があったのは、一握りの係長や主任以下の実務レベルの業界出身者だけで、上に乗った無能集団はいかんともしがたかった。
社会なら革命や暴動で政権が変わることがあるが、企業では上からしか変えられない。 トップとそのブレーンが明確な自己定義とVisionを提示しなければ、組織は機能しないという自明の理を恥ずかしい話だが20年以上経って痛感する。