問題解決能力より問題検出能力

ちょっと大きめの本屋に行けば、必ず問題解決能力を云々したビジネス本が何冊もある。問題解決能力がビジネス上重要だと考えているビジネスマンが結構いるという証左だろう。以前からそれらのビジネス本の視点、とんでもなくずれていると思い続けてきた。
その視点は随分前から一部の識者により指摘されてきた日本の学校教育の欠陥の一つと同じ類のものだと考えている。その欠陥とは、1) 問題は常に与えられるもので、2)与えられた、必ず一義的な答えのある問題を、 3) 準備された手法を使って効率よく解決してゆく、言わば問題解決テクニックの習得に終始しているのではないかということにある。習得したテクニックを駆使して与えられた課題や問題を限られた時間内にこなしてゆく訓練が教育になっている。
一担当者や一能吏としてはそれで十分かもしれない。ましてや学術的にも、実用則としても確立された多くの日常的なエンジニアリング上のことであれば、それで十分な場合が多い。しかし、エンジニアリングの範疇を抜けだし、実ビジネスの世界に一歩足を踏み入れると、あまりに多くの要因が絡み合った生態系のような複雑な状況を相手にしなければならなくなる。そこでは、そもそも何が解決しなければならない問題なのかを明確にしえない状況にあることもめずらしくない。
本当に何が取り組まなければならない問題なのかをそこそこの精度で認識しえなければ、問題として見えるもの、しばしそれは本来の問題の蜃気楼のようなものや影絵のもののようなものを問題と誤認して格闘するような結果になる。個人や組織の立場の違いによっては同じ一つの現象を見ても、全く違ったところを問題とするなどということが当たり前のように起きる。まず、組織として何が解決しなければならない問題なのかを明確に認識し、その問題のなかで、今取り組もうとしている、解決しようとしていることが何なのかを規定ができなければ、能吏の問題解決能力があったとしても何の役にも立たない。
全てはそこそこのレベルででもいいから、まず解決すべき課題や問題を正しく認識できるかから始まる。経営陣のレベルでそこそこ認識できさえすれば ―要はこうあらざるを得ないという状態と現状のギャップを認識できれば、後は問題解決能力の問題と解決主体の選定になる。こうしなければならないという目標を明確に規定できれば、それをし得る能力のある解決主体が決まる。解決主体が決まれば必然的に解決手法も決まってしまう。後は時間の問題になる。進行状況を見てまたギャップを検出して、ギャップを小さくするアクションをとる―自動制御のネガティブフィードバックのようなもので、一定時間の経過か、あるいは何かのイベントに応じてギャップが許容し得る最小になるまでアクションを取り続ける。
ブロック化すれば馬鹿馬鹿しいほど単純な話しになる。しかし、実社会では同じような課題や問題が繰返し指摘されるだけで、一向に改善の兆候がないケースを散見する。なぜ?という質問に対して、しばしば何をどうしたらいいのか分からないという答えが返ってくる。これは実は、多くの場合、何をしたらいいのが分からないのではなく、何の努力をしなくても見える、起きている現象を問題だと言っている、あるいは、問題(原因と言い換えてもいい)が引き起こしている結果を問題だと言っているに過ぎない。何が問題なのか、何が改善しなければならないことなのかを認識しえずに見える現象に振りまわれている。事あるごとに見直さなければ、状況の枝葉末節に引きずられて事の根幹が見えなくなっている。
これほど、単純な視点はあり得ようがないと思うのだが、問題が何なのかという当たり前のことを抜きにして、問題解決能力を云々している輩や組織が後を絶たない。呆れた話だが、それを売り物にしているビジネスコンサルなどという痴れ者もいれば、立派な本として出版もされている。
云々している問題解決能力が何に基づいての話しなのか?何を問題として、その問題の解決をどうするかという理路整然と説明できない問題解決能力云々の話は云々する人達の知識レベルを露呈しているに過ぎない。それをありがたく傾聴する人達に至っては何をか言わんやだろう。
2013/5/19