便りのないのは悪い便り(改版1)

“ことわざ”の常で、言い得て妙と関心することもあるが、そうかねぇー?、と思うことも多い。しばし、全く反対のことを言っている、相反する“ことわざ”がペアになっていることあるくらいだから、昔の人に言わせれば、“とき”に応じてどっちを思い出すか、それが人の知恵とでもいうことになるのだろう。
“とき”に応じての“とき”が間違っているのかとも思っているが、仕事では、「便りのないのは良い便り」だったことは、記憶の限りでは一度もない。Webで調べたら、英語でも似たようなことわざ“No news is good news.”と言うのがある。昔は洋の東西を問わず便りを出すこと自体が大変だったから、似たような”ことわざ“が生まれたのだろう。便り=手紙は出すだけでも一仕事だったから、余程のことでもない限り便りを出すことはなかったろうし、社会層によっては読み書きの不自由な人もいたから、一生に一度も手紙を出すことも、受け取ることもない人も多かっただろう。
今は、昔ながらの便り−紙に文字は、特別な、あらたまった場合以外は使わない。日常業務ではどうしてもFAXを使わざるを得ないケースが残っているが、情報のやり取りはほぼ全て電子メールになった。インターネットで世界中と簡単に情報交換や意思の疎通が図れる。通信手段が疎通の大きな妨げではなくなった。
情報交換も意思の疎通もインターネットがなかった時代を思えば、比べ物にならないほど良くなった。良くはなったが、日米欧のかなりの事業形態と規模を誇り、優秀な(?)経営陣や技術陣を擁した企業の海外支店にいた者に「便りのないのは良い便り」だったことはなかった。「便りのないのは便りがない」という文字通り“便りがない”ことでしかなく、インターネットの恩恵に浴すこともなく大きな改善があったとも思えない。
海外支店には、判断するだけのデータや能力がない。関係部署と折衝しようにも調整能力もなければ権限もない。する気になればできる簡単に決断できることであっても決断する権限を与えられていない。。。、さまざまな限界と制限のなかで日常業務を遂行している。どうしても上部組織に判断を仰がざるを得ないことが起きる。
定型化、儀式化したというかただの事務処理になってしまった判断であれば、とんでもない遅れもなく連絡がくる。 当たり前の話で、極端に言えばしなくていい、あるいはコンピュータに処理させてしまってもいいことを勿体ぶって偉そうにして処理しているだけだから、ちょっとした時間さえ惜しまなければ誰でも処理できる。
上部組織の担当者や責任者にとって、彼らの能力が多少なりとも試されるベレルの話だったり、上部組織とその関係組織、あるいはそこに在籍している人たちにとって、責任をとらなければならない立場に置かれる可能性が多少なりともあるような話になった途端、埒があかなくなる。決断した結果、万が一、己に責任の一端が発生しかねないことを回避せんがために、判断して決める権限と職責がある者が判断しようとも、決断しようともしないことが起こる。このような人たちに限って、上部組織には良い報告をし続けることを旨としている。上には奴隷のように、下には暴君そのもので、下部組織である海外支店には、たいした内実のない報告書の類を、提出期限厳守で提出することを要求するが、海外支店からの指示や判断の要求に対してはほとんど時間を割かない。
ドイツのサーボ専業メーカでは小型製品を日本のメーカからOEMで調達していた。日本支社として、このビジネスに関しては、日本メーカとドイツ本社の間の情報交換程度の雑務しかできなかったし、してもいなかった。日本メーカから毎四半期ごとに、来期の発注予想を求められた。日本メーカの製品は小型でよくできていたこともあって、ドイツ本社から世界各国に販売されていた。日本支社では来期の予想を立てられない。販売実績や海外支店の状況など、検討に必要なデータはドイツ本社が持っている。本社の購買担当者、その上司に問い合わせたが、全く返信がない。電話しても実のある返事をしようとしない。上下関係に神経質なドイツ人らしく、下に対して時間を割くことに価値を認めない、下が何を煩いという態度で相手にもされなかった。
そのドイツの会社では米国のMBAをとったフィンランド人が社長になってトヨタ方式、とは言っても彼流の教科書的なトヨタ方式、の導入を急いでいた。製品在庫をなくしたいということから、各営業拠点には毎月、今後3ヶ月間の受注予定の報告が求められた。日本支社は設立して日が浅いことと、日本で市場性がある製品群が単発のプロジェクト案件向けしかなかったこともあり、信頼できる受注予定を立てるのは不可能だった。それでも、あちこちに聞いて回って、プロジェクト受注の可能性を割り出し、毎月報告した。
人間関係を上下関係ででしか見れない典型的なドイツ企業で、上部組織として欲しい情報は矢の催促で出せというが、下部組織が常識で考えて必須とする情報は来るのか来ないのか分からない。全てが一方的で日本支社従業員はよくて二級市民扱いされていた。
似たようなことは米国メーカでも日常茶飯事だった。米国の事業部本部にとって都合の悪いことは言ってこない。 問題が発生すれば、遠くにいる−日本支社(の担当者)を悪者にして、米国の事業部内の人間=お互いをかばい合う。都合の悪いことに関しては、上から下まで、“だんまり”を決め込む。しばしば、状況が支社をして“勝ってに”決断せざるを得ない瀬戸際状態に追い込むことがある。支社が決断してうまくゆけば、成績を判断するのは“だんまり屋連中”だから “だんまり”を決め込んだ上部組織の成績になる。もし、決断して実行した結果が失敗、問題になったら、下部組織の暴走ということにして(と判断するのも“だんまり屋連中“)、下を切って、“だんまり屋連中”が、お咎めは受けるようなことはまずない。
「便りのないのは良い便り」は、通信手段が未熟だったときには状況を反映した言い草だった。通信手段が進んだ今、良い便りは便り出す側に何か特別な配慮の必要性を感じさせないから、ろくに考えることもなく、パパっとメールを打ってサッと送れる。一方、悪い便りは、多少でも考えることに使えるオツムのついている人を、何をどこまで、どう伝えるか/伝えないか、さらに、伝えた/伝えなかったことによって発生する/しないであろう状況と(誰の?)責任を考えさせる状況に追い込む。しばしば、使えないこともないがという程度のオツムの程度の人には荷が勝ちすぎて、“だんまり”になる。簡単に便りを出せる今日、「便りがないのは悪い便り」の方が現実を反映している。
2014/11/30