うどんと仕事

組織のなかでの仕事のありようと自分が自分として生きてゆくために仕事をどう捉えるべきかについて考えるとき、その(現象として現れる)仕事としてのありようがあまりに両極端なため、マーケティングという仕事ほど説明に使い易い仕事はないと考えている。そこで、マーケティングという視点からの話になるが、本来なら、その前にマーケティングという仕事がなんなのかを説明しなければならない。ところが、これが一筋縄で行かない。何度か試みて途中で放り出した。ちょっと抽象的な言い方で申し訳ないが、ちょっと長いが一言で言えば、マーケティングとは成熟した社会で市場、すなわちマーケットとどう対峙(分析)し、そのなかで自社のポジションをどうとるべきかという論理体系とそれに基づいて何をなすべきかを決断し、組織化して決断したことを実行し、実行したことから改めてマーケットのなかでの自社のポジションを。。。のぐるぐる回りと思って頂ければ結構。
こう言うと、多少(失礼)の知識のある方から異論が出ると思う。お断りしておく。ここで長い一言で言ったマーケティングはよくあるサラリーマン化した営業企画などとは本質的に違う、本来のマーケティング、未だ多分米国にしかないマーケティングを示している。米国以外では名前は同じマーケティングでも責務は全く違うものになっていたり、責務の一部のみがとりだされて、その一部がマーケティングそのものと誤解されている。関係書籍を見る限り、日本では一部のみが語られ、マーケティングとはあたかも広告宣伝となってしまっていることが多い。傲慢になりかねないので、口を慎まなければならないとは思うが、日本では頂戴した名刺にマーケティングという部署名の書いてある方々に何度もお会いしたが、マーケティング(マーケッターとでも呼ぶか)と呼べる人にお会いしたことがない。日本の会社組織には本来のマーケティングが存在しにくいのだろうと想像している。拙い経験からの結論なので危険だが、これは日本だけではない。ヨーロッパの会社にも本来の意味でのマーケティングは多分存在しないし、し得ない。長い歴史に培われた伝統的な組織体系と業務分担が本来のマーケティングが存在し得なくしている。
前置きが妙に長くなってしまったが、この存在自体の自己規定というか自らが自らの存在を規定する、それを受け入れる社会構造の自由さがあってはじめてマーケティングという職業がありうることを抜きにしては話が成り立たない。マーケティングには、自分で勝手(ちょっと言い過ぎだが)に市場をこう見て、こうすれば、こう組織に貢献できると言い出して、勝手に仕事を作って背負い込んでという、世話焼き押しかけ女房のようなところがある。
変な比喩になるが、マーケティングの仕事は言ってみれば“うどん”のようなもので、微に入り細に入り凝って凝ってこれ以上凝りようがないという“匠のうどん“のやり方もあるし、手を抜いて抜きまくってこれ以上は抜きようがないというほどまで手を抜いた”それでもうどん“というやりかたもある。結果としてあるのは、どっちも“うどん”であることに変わりがない。
どっちが良いかと聞かれれば、普通は前者が選ばれるだろうが、ビジネスの世界だから、それは予算次第だろうと答える人が多いだろう。その通りといえる場合もあるだろうが、としか言えない。マーケティングの仕事には、予算が多ければ手をかけた仕事ができて、予算が少ないから手を抜いた仕事しかできないと単純に言い切れないところがある。これは、どの世界にもあることだろうが、マーケティングはこの両極端の距離がありすぎる。ただ仕事が流れているような仕方でも“うどん”ができるところにいやらしさがある。マーケティングの仕事は関係する、立場の違う人達が絡んできて、この一概に、さっぱりと割り切れないような感じがいつもつきまとう。それでも、たとえ予算も含めたリソースが決定的に不足していても、マーケティングの誇りとして、個人として、凝りに凝った“匠のうどん”を目指すのを諦めない志向のある人でなければ本来のマーケティングは務まらない。
どんな仕事にも、その目的がある。正しくは、目的を達成するために仕事があると言うべきだろうが。マーケティングは、経営トップの参謀(本来マーケティングは社長に直接報告する立場にある)としてその目的を規定するところから関与する。当然、何故、その目的を規定したかまで、しばしばリソースの限界が故にそこに目的を設定せざるを得なかったかまで熟知している。熟知しているからこそ、その目的を達成するために何をどのように組み合わせてどこまで行動してゆくべきかの実務レベルの決定が可能になる。
この立場にいると、職責上では一従業員に過ぎないマーケティング担当者ですら、組織内の業務規定に従った仕事の仕方、分掌規定に、従業員規則に従った仕事の仕方から経営陣と似たような責務を背負って、また生きがいを感じて目的達成のために、昔ながらの言い方で言えば寝食を忘れてという仕事の仕方になってしまう。マーケティングの失策は全社に大きな影響を及ぼすことを知っている。次から次へと仕事を背負い込み自分で自分を忙しくしているような、変な見方をすれば、マゾヒストじゃないかと見えるほどになりかねない。それで、凝りに凝った“うどん”が出てくる。
ところが、企業によっては営業部隊のお荷物的存在だったり、経営企画という実務から離れた評論家や提案部隊に過ぎない組織をマーケティングとしている。ヨーロッパの大手の会社で遭遇したのは、“静的”とでもいうのか、市場調査会社や投資証券会社などから入手した市場動向の資料やデータ、例えば、半導体産業の来年の成長率はxxxと予想される、を社内向けに整理して報告するだけの、まるで証券アナリストのようなマーケティングだった。米国の企業でマーケティングとして、もし似たようなことをしたら、だからどうしたって叱責される。具体的な戦略から戦術はどうした?即、アクション・プランを出せになる。ヨーロッパの“静的”に対して“動的”とでいうか。ヨーロッパのは、まるで市役所(失礼)あたりのお役所仕事で、気楽といえば気楽なお仕事でということになるが、見方を変えれば、硬直化した社会構造が、次の社会構造に進めるべき人達に能力を発揮する機会を与えていないといえる。
日本の企業でも似たり寄ったりで、ただの業務関係の実務部隊がそのままマーケティング部隊だったりする。マーケティングは営業のお手伝い部隊でもなければ、広告宣伝の雑務係じゃない。広告宣伝や展示会からカタログなどの販売資料の作成、プレスリリースなどの実務を遂行するのは、マーケティングの一部であるマーケティング・コミュニケーションが担当するもので、マーケティング部隊の中枢の仕事じゃない。トップの右腕としての市場調査、戦略立案、実行部隊としてのマーケティングが存在し得ない組織では、たとえマーケティングと名打っていても、そこから出てくる“うどん”は、“それでもうどん”ででしかない。“それでもうどん”を出してくる組織をマーケティングとしているような組織には、“それでもうどん”と凝りに凝った“匠のうどん”の違いが分からない人達が多い、というよりそういう人達しかいない。硬直かした社会構造と社会構造のなかで安穏としている個人の両方の問題なのだろうが、そこには市場における自社のポジション云々の議論があったとしても、言葉のお遊び程度の議論とも呼べない議論で終わる。その人達にとっては、町内野球もメジャーリーグも同じ野球で、たかが“うどん”、されど“うどん”などという小難しい話は通じない。それなりの“うどん”でごちそうさまって、それで幸せって言えば、幸せなのだろうが、そのままその幸せが続くとも思えないが、