ドイツもどこも

経験も知識もないに等しいにもかかわらず、自分なりに汎用的なこととして説明をしようとしている。この試みは危険過ぎるし、もてる能力を大きく超えている。それでもしなければならないという気持ちがある。しなければならない、するしかないという気持ちの整理から話を始めさせて頂く。あれもない、これもない、どれもこれも足りないが説明する価値があると信じている。
非常に限られた経験と知識から人は情報を一般化し、思考の積分とでも呼ぶ知的?作業から知識を延長してゆく。勉強不足から、この類のことをきちんと体系化して説明をする知識を持ち合わせていない。具体例をいくつか上げれば、言わんとしていることは簡単にお分かり頂ける。大阪の人達が東京の人達を一般化して、“東京の人達は、xxxだから、yyyだから”という。同じように東京の人達が大阪の人達を一般化して、“大阪の人達は、xxxだから、yyyだから”という。xxxだから、yyyだからと一般化した評価が当てはまらない人達もいるだろうが、大まかには、どちらの評価も妥当なものだろう。評価が妥当であったとしても、“。。。だから”と言う個々の人達がどれほど多くの東京の人達、あるいは大阪の人達に会っているのか、どれほどの知識を体系的に得てきたのかと言えば、知識も経験も非常に限られている。一千万人を超える東京、その周辺で東京と同じ範疇に入れられるところに住んでいる人達の何人に会っての評価なのか?同じように九百万人弱の大阪の人達のどれほどの人達と会っての評価なのかといえば、実の経験は非常に限られている。限られたなかから、ある一般化した理解を作り上げるのが人間の高等生物たる所以の一つだと考えている。
稚拙な理解に入る前の言い訳じみた前置きが長くなってしまったが、ここからが本旨の始まりになる。複数のドイツの会社で、本社所在地が持っている文化も結構違うし、方言もそれなりにある会社の日本支社で全くと言っていいほど同じ問題に遭遇した。日々遭遇する問題も似ていれば、それを引き起こしている根本原因というか本質的な問題は全く同じ。昨今巷で褒めそやされている世界のニッチ市場でキープレーヤとして活動している中堅企業とドイツの実業教育に問題の一端がある。見える一端で、その先にはドイツの歴史と社会がある。
ドイツでも大学の門戸が開放され、大学進学率が上昇している。ただ、ドイツの大学は公立大学が主体で卒業には国家試験に合格することが必須とされる。入れれば出れるどこかの国の名前だけが大学というような大学教育ではない。大学を卒業した学士には社会的なステータスあり、名刺にはDiploma(学士)と書かれている。社会においても企業内においても、それに値する実務能力を持っているからこそ、それだけの名誉?もあると考えれば、その立場の想像がつく。
多くの中堅企業の経営陣には博士もいるし、学士もいるが、学士ではない(名刺にDiplomaの記述がない)人達も多い。製造業の現場は実務教育を受け、企業でインターンの過程を経て職責を任されるに至った人達で構成されている。
社員数も三桁台の中堅企業では、お互いがお互いを知っている地域社会のなかで生活しているような状態にある。日常の業務を通して、人と人との関係から、誰が何をしているのか、社がどちらに向かって何をしようとしているのか、たとえレベルの差はあっても皆が知っている。この点では日本の中小企業と似ている。
ドイツの中堅企業が日本支社を設立して、日本人従業員を雇う。雇われる日本人従業員の多くが大学卒業者で占められる。ドイツ流でゆけば、名刺には“学士”と記載される人達だ。実際に記載はしなくても、記載に値する教養と専門知識を習得しているはずとドイツ流に考える。学卒者でないTechnician レベルの人達にも、ドイツと似たような実務教育を受けて社会にでて、そこそこの年齢の人達であれば、ドイツにおけるのと同じような実務能力を持っているはずと考える。
自国の社会や教育、地域社会のあり方まで含めて、うまく行った、行ってきた方法と組織をそのまま日本支社で構築しようとする。ドイツでは従業員が皆が皆を知っている。お互い大まかにではあったにしろ誰が何をしているのか知っている。歴史的にその存在意義が実証されている地域社会と実務教育、それに続く企業内のインターンとしての社内研修。今の社会に合わせてインターンと呼んでいるが、その由来は徒弟制度にある。どこにでも言えることだが、歴史と社会が今の経済活動を支えているし、規制している。
多民族で歴史的に一つの常識に集約しきれない米国社会が暗黙知を形式知化し、標準化することで生産性を向上してきた。ドイツには米国で必須だった暗黙知の形式知化や標準化は米国ほど必要とされてこなかった。そのため、形式知の存在形態の標準的なかたちとしての文書化、データ化が遅れ、人材育成に口述伝承が重要な地位を占めたままできた。
限られた形式知と口述伝承によるトレーニングで必要とする情報や知識を習得するには、日本人従業員もドイツと同様な教育体系による学校教育、あるはそれに匹敵するレベルの学校教育を受けていることが前提となる。さらに、そこには英語での意思疎通、情報のやり取りができることが必須の能力として要求される。
ドイツ社会でうまく機能している組織とやり方をそのまま日本でやって十年、二十年。。。一向に日本支社がまともに機能しそうもない。現象として誰にでも見えるからここまでは誰にでも分かる。分かるまではいいのだが、その先がない。歴史も違えば、社会も違う、初等教育から大学教育も全く違う。多くの環境条件の違いに加え言語の障壁ある。同じやり方でうまくゆくはずがない。いい加減に組織もやり方もドイツ流ではうまくゆかないことくらい分ってよさそうなものなのだが、あまりに、彼の地でうまくいっているからだろう、ドイツ流以外のやり方を受け入れる素地がない。素地などという抽象的な言い方ではなく、はっきり言ってしまえば、知識と経験が足りない上に、その両者を組み合わせて何かを考えだすVisionaryとしての能力がない。
自分たちの知識や経験の不足、それ故の発想の貧困を棚に上げて日本人経営層の無能が日本支社がうまくゆかない原因だと考える。その結果、日本支社の経営層を入れ替えるが、新たに招かれた経営層がまだ多少は機能していた実務層をも崩壊する愚を犯すことすら起きる。そこに残るのは日本人従業員に対する不信と無能の烙印、全機能不全の組織、その組織のなかでうまく立ち回ろうとする魑魅魍魎のような人材になる。
非常に限られた経験と知識からドイツの中堅企業を例として引き合いに出したが、どの国の企業にも多かれ少なかれ言えることで、日本企業の海外支社では、ドイツ企業の日本支社の遥かに超えた状況がある。業務を進める上で必須の情報が日本語ででしか存在しない、多少なりとも重要な事柄は海外支社に決定権もなく、海外支社には本社の意向に沿った限りでの意思決定プロセスへのオブザーバのような参加の資格が与えられているに過ぎない。ドイツ企業の日本支社でバタバタしてきたが、あれこれ考えると、情けないことにドイツ企業の日本支社の方が、日本企業の海外支社よりまっとうかもしれないと思ってしまう。思ってはしまうが、どっちがどっちと聞かれれば、五十歩百歩だろう。
2013/8/4