して頂けて、やっと半人前(改定1)

どこに行っても、小学校四五年生でも分かる単純な評価、判断基準しか考えられない人たちに会う。確かに、どの特定部分に重みを置いて評価しても、全ての人たちに公平な評価基準はあり得ない。それでも、あり得ないもの−公平な評価基準を求めて、様々な評価体系が生み出されてきた。その過程で、評価する側の作業の容易さや人為的なバイアスを少なくするため、数値化が進められ、数値化しようのないものまで数値化しようとした。試行錯誤の末に、新しい評価体系も公平な評価を実現するものではないことに気がついた。挙げ句の果てに元に戻った。数値化できるところを中心に評価すればいいじゃないか。それ以上ひねくり回したところで、労多くして功少なしと割り切って、昔ながらの評価基準に見てくれの体裁を整えたものが大勢になった。
誰にでも一目で分かる見える数値で評価すれば、一見公平な評価に見えないこともない。見易いところの数値をそのまま評価に使えば、数値化の手間も、それに必要な頭脳もいらない。評価する側にとっては評価する能力を問われることもないし、評価の手間暇もかからない。この良い事ばかりの評価基準が営業のように数値化し易い業務に従事する人たちの評価に取り返しのつかない誤解を生むことになった。
日々の成果が数字ででてくる業務を評価するには、計算表ソフトで個々の数字を集計すれば事足りる。営業はそのような業務の典型で、昔ながらの評価体系のもとでは売上数字さえ上がれば、それだけで営業マンとして高い評価を受ける。売上さえ上げれば上司や周囲の人たちから一人前の営業マンとして扱われ、本人も自身を一人前の営業マンだと考える。
一営業マンとしてであればそれで十分、それ以上何も求める必要はないかもしれない。ただし、こう言っては失礼になりかねないので多少の躊躇があるが、それはよくて一営業マンとしての、その人にとっての一人前に過ぎない。一営業マンとしての実績と能力を買われて部隊を率いる立場になったら、あるいは組織上は一営業マンであったとしても周囲の人たちに良くも悪くも影響を及ぼす立場になったら、個人としての数字を上げているだけでは、自分の頭のハエを追いかけているたけでは任を果たしていることにならなくなる。
そんな面倒な立場になることはお断りして、一営業マンとして自分の営業成績だけを気にしていればすむ立場に留まる自由はあるはずなので、その選択をされる方には下記の視点は不要になるのを承知で続けさせて頂く。
一人前だと周囲も自分も思っている営業マン。これは、数字の上で自分に課された売上目標を達成する。自分の仕事が自分でできるようになったということに過ぎない。ちょっとした立場になると、自分の仕事を自分でしていればいいということではすまなくなる。ましてや、傷んだ組織にありがちな周囲が困って成績が上がらなければ、相対的に自分の成績がよく見えるという卑しい考えは成り立たなくなる。
自分でやってしまえばできることを、ただ任せておけばできない周囲の人(一般に部下と呼ばれる人たちになる)にできるようになって頂く環境を提供しなければならない立場になる。やれと言ってできるのならやっている。直接関係する周囲の人たちがやれるまで環境を改善し続ける責任がある。それも、命令ではなく周囲の人たちが目的を理解して、自らの工夫で、必要に応じてやり方を工夫して任務を遂行できるまでにしなければならない。
直接関係する方々に大した苦労をすることもなく目標を達成し得る全ての条件を整える。ここには目標を見る視点から始まって業務を遂行するまでの説明とご理解頂くまでの全てがある。周囲の方々にご理解頂き、自らの判断で仕事をして頂けるようになって、やっと半人前。巷で耳にするやらせるとか、命令するというのではないことに注意されたい。して頂くというのとやらせるでは、似たような結果が得られたにしても、本質的に大きな違いがある。いつまでやらせるのか?自分で判断して、して頂けることに意味がある。
自分と自分が直接関係する周囲の人たちから直接、間接に何をどう見てという視点から、何をどう見てどう判断して行くのか、検討し決断して実行してゆくプロセスが文化のように知らない組織にまで敷衍して、そこで状況や文化に応じた変化を遂げる。遂げたものが自分に返ってきて、そこから学ぶところまできて、やっと一人前といえるかもしれないぼんやりとした姿が見えてくる。
一人前の料理人の影響が知りもしないところでかたちを変えて現れる。その現れたものが新しい刺激として戻ってくる。 ここまで来てやっと一人前のあり方、姿が見えてくる。
グローバルサプライチェーン、原型は日本の車屋の爪に火をともす調達体系から発したものだろう。日本では地域限定だったのが、米国に行って気がついたら地域限定が外れてもグローバルになって返ってきた。
2014/11/23