着眼大局着手小局

方針だの戦略だのという言葉の斜め後ろあたりに靄に隠れた着眼大局という視点が鎮座している気がしてならない。物事の認識から始まって、頭のなかをぐるっと回って行動がある。この基本的なプロセスの要点をこれほど見事に言い表した言い草はないだろう。
語り継がれた言い草の常で、誰に言わせてもその通り。反論のしようがない。言い草の中には全く正反対の事を言った二つの言い草がペアになっているものもあるが、“着眼大局着手小局”に至ってはそんものの存在を許さない。
状況を掴みきれない、打つ手が思い浮かばない。。。今まで何度もどうしようもない状態に陥った。そのようなとき、いつも自分にセットバック、セットバックと言い聞かせるようにしてきた。事務所に出れば、一日が流れている仕事のバタバタで終わってしまう。忙しくバタバタしていてれば、原始的な体で感じられる充実感がある。この充実感がくせもので、人が本来的の持っているはずの創造性を麻痺する。麻痺してしまうと、ただ忙しいというだけで仕事をした気に、職務をまっとうしている気になってしまう。
麻痺しがちな頭を多少なりとも機能させるためにセットバックを自分に強制しようとする。どこまで後ろに下がって全体像をみなければならないのか。どの位置での全体像が今と将来の自分たちの状況をもっとも掴みやすくしてくれるのか、下がる位置の模索が終わらない。近すぎれば、よく見えるが視野が限られる。下がりすぎれば注視しなければならい部分が遠くに引きすぎてよくよく見えない。
物事の核心とその周辺を見事につかみ出す才のある人は、このどこまでを全体像として捉えるべきか、いいかえれば下がる位置の取り方の上手な人だと思う。見なければならない、見た方がいい、見なくてもかまわない景色を常日頃鷲掴みにしているのだろう。
頭のなかをぐるっとひと回りしてと言っても、回るものがいい加減だったら、当てになるものが出てくるわけがない。全ては認識から。その認識がいい加減だったら、それ以降のプロセスがいくら優れていても何も価値あるものを生み出さない。
あちこちいろいろお世話になってきたが、着眼“大局”と自信をもって言えるケースに遭遇したことがない。自戒の念も込めての話で、セットバック、セットバックと意識して後ろに下がってできるだけの“大局”を見ようとしてきたが、果たしてそれが“大局”と呼ぶに値する程のものだったのか。そのときどきの、できる限りの“大局”に過ぎなかったと思う。日常のバタバタに引きずられ、引きずられたバイアスをリセットしきれない能力の人間が、大局を見たいがための拙い努力と試行錯誤を続けてきただけのような気がする。
着眼大局は、どこかの政党名のように有名無実に近いものに思えてならない。その意味するところを気にして何らかの努力をするか、しようとするのがいいところで、意識しての着眼すらないのがほとんどだろう。余程の能力と自制のある人でもなければ、日常に流される。流されかねない流れのなかにいなければ実の現場がわからない。人からの報告や市場データなどの間接知識から知り得た理解程度で有意な分析や思索、決断が生まれるとも思わない。着眼大局のためには、どうしても流れの中に身を置き続けなければならない。
流されかねない流れのなかで流されることなく平静に大局を掴みきる。至難の業で曲りなりにもできる人がいるのか。歴史上でですらどれだけいたのだろうかと、自分の能力を棚に上げて思う。
一方、着手小局はフツーの人にとってそれほど難しいことではない。夜郎自大がまかり通る環境がない限り、着手大局はしたくてもしようがない。余程特殊な、ある意味恵まれ過ぎた環境でないかぎり、いつでもどこでもリソースも時間も限られている。あれも、これも、何から何まで一気に片付けてしまいたいと思ったところでどうにもならない。多くのことが時間の函数で、しばし一つのプロセスがかたちになってからしか次のプロセスを始められない。フツーの人のフツーに与えられる環境と能力は着手小局を必然とする。着手小局、言ってしまえば、どの小局かということに尽きる。
着眼大局をそれなりにまともにし得れば、フツーの人のフツーの努力で、あとはなんとでもなる。ただ、実体験と見聞きした限りでは、大だの小だの言う前に、ほとんど“着”がない。日常のバタバタに流されて、バタバタの充実感がまるで麻薬のように思考を麻痺させる。麻痺した思考からは充実感とそれに伴う自信という快感すら生まれる。その結果、着眼なくして着手小局だけになる。結局、どの小局かという、日常の流れのなかでの話に終始する。こう考えてくると、着眼大局を忘れずに、どの小局かを間違えなければ人並みの成果が得られるということになる。
2013/10/6