マネーボール−弱者の窮余の策−戦略

レンタルビデオ屋で『マネーボール』を借りてきた。本を読む機会を逸して映画になってしまったことにちょっとした後ろめたさがあった。内容はどこかで読んだか聞いたかで分かっている。映画なら時間の節約にもなるし、映画でいいじゃないかと。
『マネーボール』については、ウィキペディアに的を得た説明がある。ご一読頂ければと思う。
Michel Lewisの『Money ball』が出版されたときボストンに住んでいた。日系の現地法人の立て直しを請け負って一年ちょっと経った頃だった。週末の買い出しのついでに立ち寄るのがお決まりのようになっていた本屋で山積みされていた。何の本だろうと気になってページをめくったが、買わなかった。いつ読めるか分からなくても、読まなければと思った本は買うことにしていたので、何か引っかかるものがあったのだろう。
映画の始まりのところで、当時自分が置かれていた状況と酷似していて目頭が熱くなった。オーナー社長の思い入れといえば聞こえがいいが、勢いだけで作ってしまった現地法人。海外支社の経営のあり方も、本社からの支援のあり方も何から何まで全く何もない。あったのは資本金を遥かに超える債務とやる気のなくなってしまったアメリカ人従業員だけだった。入れ物として倉庫のような事務所を借りて人を雇っただけで、机やイスすら中には従業員が家で使わなくなったものを持ってきて使っているありさま。ましてや日常業務に必須のコンピュータシステムなどあろうはずもない。本社には海外支社を作って事業展開するのに最低限何が必要か分かる人がいなかった。言葉では分かったようなことを言っていたが実体として理解する能力もその能力を培う経験もない人たちだった。
立て直しがどうのと言う前に見積もりから始まって棚卸に至るプロセスで起きる単純なミスすら防げない。定型化した単純業務さえあてにならない。どうしても、最低限機能する業務システムを導入しなければ再建どころではない。本社に掛け合っても相手にされない。社長はアメリカにまで進出できたという能天気な自称発明家。経営は田舎の信用金庫あたりから連れてきた自称経営のプロに任せきり。この経営のプロ、社長の手前口外はしないが不採算なら潰してしまえばいいという単純な結論。地方都市にぽっと出た新興宗教の方々が多数を占める中小企業、何をするにも人材という人材がいない。
債務超過の現地法人、何をしようにも先立つ金がない。金をかけずに営業活動をしなければならい。それこそ十ドル、二十ドルというレベルの細かな出費させ抑えて売上を伸ばす手を打ち続けた。ただで展示会に出品する、無料の広告宣伝を使う、客を訪問する旅費がないから代理店を設置して代理店に行かせる。ちゃんとした営業活動をしたかったが金がない。
金がないからどこにも行けない。お陰で個々の客と客にしなければならない会社のデータ、パートナー候補も含めた業界地勢図を整理しては金をかけずになにができるかを考え続ける時間があった。大した資料ではない。どのみちできることは限られていたから、できることの範囲をカバーすれば十分な資料。良くも悪くも使いこなせるというか使いきってしまう資料だった。資料を基にアメリカ人従業員にこれこれこうだからこうしようと説得を試みた。説得しようして逆に説得されることも多かった。注文も少ないしたいした営業活動もしてなかったからお互い時間だけはある。なんとかしなければという思いにかられての説得し合いのなかから合意と共感が生まれていった。
米国の競合二社は流石に老舗だけのことはあって全米市場を網羅した販売組織網を作り上げていた。潤沢な予算をもってしても似たような販売代理店網を作るには時間がかかりすぎる。したところで相手にとってはホームグラウンドの市場、こっちは本社から遠く離れた出先の一販売拠点。似たようなやり方−正攻法では勝ち目はない。できることとしなくてもいいことの切り分けをしながら、これをすれば後はどうにでもなる方策をあれこれ考えた末に腹をくくった。全米市場と一社以外の画像処理メーカを当面脇に置いておいて最大手の画像処理メーカ一社のパートナーになることに全勢力を投入した。市場全体を見渡した販売戦略などと格好のいいことを言っても何もできない。幾つもある画像処理メーカとの付き合いのバランスや全米に散った顧客のサポート。。。言い出したら切りがない。バランスなど元々ない。全てを後回しにして一社を籠絡した。
最大手の画像処理メーカのためだけの製品供給体制を新たに作った。価格や専用販売在庫も納期も厳しい要求だったが飲まざるをえない。ただ、相手先ブランドによる提供は避けた。自社ブランドのまま製品型番だけをそのメーカ専用のものにした。画像処理メーカがソリューション提案のなかにこっちの製品を組み入れて販売する。購入したエンドユーザの評価が違う画像処理メーカのプロジェクトへの採用に道を開いてゆく。営業活動をしなくても引き合いが入ってくる。最大手画像処理メーカは売ってやっている、総売上に対する彼らの比重が大きくなっていると信じこんでいたが、彼らが蒔いた種のお陰で違うところにも売れて、比重は変わらなかった。
ちょっと前までいつ撤退するかと噂されていた日本の変なメーカが橋頭堡を築き上げつつあるのが業界に知れ渡っていった。競合二社はそれを知っても対策の打ちようがなかった。米国市場における老舗としてのプライドもあるだろうし、数ある主要画像処理メーカとは公平な取引関係を保たなければならない。二社間の競合状況からお互いに牽制しあうこともあって特定の画像処理メーカとは組めない。そんなことをしたら、その他の画像処理メーカとの関係が崩れるだけではなく代理店との関係までおかしくなる。
金も人も市場も持っていない弱者だから打てる手、これしか打てる手がないから打った手なのだが、大手競合には似たようなことができない。自分の弱みを強みに、競合の強みを弱みに変えた一手だった。
これは戦略と呼んでしかるべきかとも思うのだが、やってる当人にしてみれば困り果てた末に考えついた窮余の策。できれば窮余の策を捻り出さなければ生き延びられない状況には陥りたくないのだが、そんなところだからこそ傭兵の出番もあろうというもの。呼ばれたところ、状況はさまざま、経緯や事情もそれぞれ、何もかも違うのだが不思議としてきたことに大きな違いはない。
業界構造を読み崩す。崩したものをこっちの都合に合わせて黒子として再構築を仕掛ける。表にでる金もなければ人もいない。黒子に徹するしかない。自分達の弱みを強みに変える仕掛けを工夫し続ける。工夫の一端が大手の同業や客に抜けても潰しもできなければ一朝一夕に真似もできない。真似しようしたところでかたちだけで終わる。仕掛け本来の設計思想とその背景が分からなければ仕掛けを使い切れないし、大手の正規部隊が使うには癖が強すぎる。
設計思想などといえば聞こえはいいが、言ってしまえば、所詮持てない者−弱者の窮余の策。ただ、その窮余の策こそが実は真に戦略と呼べるものかもしれない。弱者としては生き抜くためにどうしても生み出さなければならない。今までやってきたことを今まで通りやり方で−力任せに王道を往けば今まで通りの結果が必然として上がってくる強者にはそのようなものはいらない。そこでは状況に合わせて多少変更した今まで通りのやり方を戦略と呼んでいる。それも戦略と呼べば戦略と呼べないこともないという類の戦略にすぎない。本質的に戦略と呼ぶに値する戦略はなんとかしようとする弱者−今まで通りでは困る人たちからしか生まれない。
マネーボールがドラマとして描いた弱者のありよう−弱者が弱者ゆえに常識を超えた手を考えだす。ただ考えだした手が簡単にどこにでも移植できるものだったら、強者は必要になればいつでもその手を取り込む。取り込むだけでなく、金に糸目をつけずに精緻化もすれば組織化もするだろう。常識を超えた手が弱者の弱点を強みに、強者の強みを弱点に変えるだけでなく、移植が難しいものでなければ、弱者はいつまで経っても強者に太刀打ち出来ない。
映画の最終場面に近いところで、オークランド・アスレチックスを常識を超えた手で作り変えたジェネラルマネージャにボストン・レッドソックスのオーナーから引き抜きのお声がかかった。魅力のあるオファーだったが、弱小チームを率いて金満チームを打ち負かすことに生きがいと価値を求めていたから当然のこととしてお断りした。断られたレッドソックス、それではと自分たちで常識を超えた手法と組織を上げて作り上げた。潤沢な資金のあるレッドソックス、アスレチックスの一人、二人というようものではなく組織を作った。そのせいだけではないだろうが、マネーボールが描いたアスレチックスの快進撃は昔の話になってしまったが、レッドソックスはヤンキースとともに常勝チームの感がある。何人もの日本人選手が両チームで活躍している。日本のファンには訴えるものがあるだろう。ただ、その訴えるものを生み出すコストと上がりはしっかりとビジネスとして計算されている。そう思うと、どうも素直に野球も見れなくなって。。。
p.s.
投資銀行やファンドじゃあるまいし、計算づくのスポーツがそこまで計算づくとなると、見たくなくなるという人もいるだろうし、その計算づくを見たいという人もいるかもしれない。計算づくかどうかなど気にしないという人も多いだろうが、良くも悪くもスポーツもビジネスになってしまったことだけは確かだろう。

2014/3/30