自縄自縛を解くのは自分たち

個人個人では、何人もが何とかしなければと、分かり過ぎるほど分かっているのだが、誰も本気でその労を取ろうとはしない。今まで何人もが手をつけてはみたが、不慣れなためというより関係者、特にベテラン社員の協力を得られずに中途半端で終わってきた。多くは中途採用者でそれまでいたところとの違いに戸惑い、自分でやるしかないと腹をくくって始める。それを見れば、前に中途半端で終わってしまった人たちの中から誰か一人くらい協力者として出てきそうなものなのだが、冷やかしくらいしか出てこない。苦労して嫌な思いをするだけ、できっこないと誰もが信じている。ベテランになればなるほど、口ではいいことを言っても、本心はやろうとする人のやる気を削いできた。
歴代の経営陣が性悪説を信条としたブローカー上がりのような人たちだった。その負の遺産のせいだろう、創業以来二十年経っても社として多くのことが標準化されずにきてしまった。特に営業は請負個人商店のようなありさまで、標準価格や標準割引率、カタログから販売資料に至るまで、ありますという程度のものしかない。販売価格は顧客との長い付き合いのなかから力関係で決まってしまったものが多い。顧客の担当者とその時々のお互いの事情を掛けあって、お互い社内で通るところで折り合いをつける。茶でもすすって手もみしての駆け引き、まるで時代劇でも見ているような感がある。
ゆったりと変わってきた業界で今も十年前とほとんど何も変わらない。そこで十年、二十年と同じことを繰り返してくれば嫌でも知ってる。経験してきている。ベテラン社員は手揉みの数だけ色々知っている。彼らの知識はすべからく直接体験に基づいている。ざっと基礎が分かってしまえば、あとは経験がものをいう枯れた業界の枯れた技術。フツーの知能があれば誰も基礎知識の習得には困らない。ベテランと中堅、新米との差は経験の差でしかない。しばし、若い人たちの方が英語もコンピュータの扱いもベテラン社員よりは慣れている。ベテラン社員にしてみれば、経験の差でしか自分たちの優位を保てない。
ベテラン社員の経験に基づいた知識は、販売した製品の顧客が使用している機能に限られる。製品が持っている機能や性能でも客がそれを使わなければ、その機能や性能を知ることはない。全ての技術資料が英語なので、自分から進んで辞書を引き引き、最新の機能を勉強するようなベテラン社員はいない。
全てがオン・ザ・ジョブ・トレーニング。ベテラン社員が知っていることを新米社員に伝えてゆく。ベテラン社員が経験したことのない−顧客が使ったことのない機能や性能は知らないし、興味もない。状況を喩えて言えば次のようになる。タイヤが四つ、ハンドルが一個右側にという自動車のスケルトンの説明はあっても、もう当たり前になった感のあるカーナビはない。昔からの客がカーナビを使わなければ知ることもないし、知る必要もない。知らないから営業から客に説明されることもない。
ベテラン社員同士、客も違えば販売してきた製品も違う。基礎知識ではお互い大した違いはないが経験は違う。経験が違えば、他の従業員との差別化の武器として使ってきた知識の経験に基づいた部分が違う。基礎知識を超えたところでは経験に基いているだけで体系だった知識でもなければまとめた資料もない。ベテラン社員ごとに持っている知識が違う。それぞれのベテラン社員も自分が知っているのは一部分に過ぎず、その一部分ですら整理され、体系立てた知識になっていないことは自覚している。ベテラン社員同士、お互いにどこまで何を知っているのかの想像はついている。ついてはいるが、相手の知らないことをわざわざ整理して分け与えようとはしない。性悪説が支配したところで、率先して分け与えても、お返しが返ってこないどころか、ここまで知っているをここまでしか知らないと揚げ足取りに使われなかねない。
重厚長大産業が花型だった時代も終わって、コピーメーカに過ぎなかった国内メーカには何年も前に価格競争で太刀打ちできなくなった。今までのように個人が自分のためだけに自分だけで技術資料や販売資料を作っていたのでは間に合わない。何人もが多かれ少なかれ危機感をもっている。もってはいるのだが、社として共通、共有資料を創ってきたことがない。ないだけではなく、作ろうとしてきた人たちを馬鹿にして、あざけってきた。それが身に染み付いてもう文化にまでなってしまっている。自分たちが創ってきた文化が自分たちを閉塞状態に押し込んでいる。おしこまれて文化を変える能力が萎えきってしまった。
どうすれば、その閉塞状態を打破できるか?そこに広範な技術知識と豊富なビジネス経験をもった人でもコンサルタントとして招聘すればなんとかなるか?答えは“否”だろう。余程の強権をもってしてベテラン社員から彼らが保身の武器としてきた知識を吐き出させることができたとしても、“否”だろう。仮に今まで蓄積してきた全ての知識を吐き出せたとしても、もし、今日の、明日の。。。これからの知識を吐き出させ続けるような体制をとったら、それはもう恐怖政治に堕する。自分たちの意思で、知識を共有する意識改革を進めなければ問題は解決しない。外から持ち込む力、たとえ一時的であったとしても使いようがあるかもしれない、しかし権力で人を強制して作ったものは育たない。一時的は文字通り一時的で終わり、継続しない。育つ環境がなければ育たない。逆説的になるが、育つ環境は育たない環境を創ってきた人たちにしか作れない。解決しようとする熱意も、自分たちで変えるという気概もなしで外の力をあてにしても解決しない。自縄自縛を解くのは自分たちしかいない。人に解いてもらってもまた自縄自縛になるだけだろう。
2013/11/10