データ重視−やはり人

“データ重視”と言われると反論し難い。事実に基づいてというのにあたかも神の声のような感がある。コンピュータがまだ電子計算機と呼ばれていた頃を思い出す。電子計算機で処理した結果だからという電子計算機信仰のような響きに似たものを感じる。何を説明するにも提案するにも、それを評価するにもデータの裏付けがなければならないとする、データ信仰のようなものを感じる。
ところが、データ重視には本質的な欠陥(限界)と運用上の危険がある。それに気が付いての重視ならいいのだが、あたかもなにかの流行のように誰も彼もからデータ重視という言葉がでてくると、重視ではなく信仰に近いのではないかと思えてくる。信仰が支配の道具に堕しかねないようにデータ重視が都合のいい人たちの都合のいい道具として使われかねないことを思うと、新しい衣をまとっただけで昔ながらの不幸が起きているのではないかと心配なる。
データ重視でデータ解析をしようとしても解析に必要な情報が整わないことが多い。解析する情報のないデータ解析はありえない。解析に堪える種類と質と量の情報を収集するのは容易なことではない。まして時間的な推移まで見ようとすれば、情報が欲しいと言って今取り始めてもどうにもならない。何年も前からの計画に基づいた情報の蓄積、それも解析目的にあった情報の蓄積があって始めてデータ解析なるものが可能になる。
一般にデータを要求する人たちは自分で情報を収集することも、それを解析する能力もない。多くが部下し指示して報告書なり提案書にデータの裏付けを要求するだけだろう。このような人たちのなかには、不幸にして本質的には自らの能力で物事を判断し決断することもなく、それに対する責任感もない人たちがいる。そのような人たちは、データが説明していて今更何を検討する必要もなく結論が出てしまっている報告や提案を要求して、出ている結論をあたかも自らの責任と能力で決断したという儀式を司る。彼らにとってデータ重視は儀式のお膳立てに過ぎずない。データ重視という儀式が権力者としての正当性を主張するものとして使えるのであれば、使えばいいという程度にしか考えていない。
データ重視といいながらも、そこで求められるのは儀式に都合のいいデータでしかないことがある。結論が既にでていて、その結論を裏付ける、支持するデータの捻出(創出?)が要求される。まっとうなデータをもとに具申したとしても、そのデータが既に出ている結論を支持するものでなければ、いかにまっとうであっても廃棄されるか隠蔽される。
さらに、もし万が一決断した(はずの)ことが許容範囲を超えて問題になったら、そのような人たちは、あたかも他人ごとのように、慎重にデータを解析し分析した合理的判断であって、私が決断してことではない、今回の問題は誰にもどうしようもない不可抗力である。。。、要は自分の責任ではないと主張する。中にはデータを収集し解析をして報告、提案した部下の問題として責任を押し付けることまでしかねない。
データは常に過去の状況をサンプル値として表しているに過ぎない。従って、データ重視とは過去を持ってして将来を予測することに他ならない。データを基に将来の有り様の予測し施策を決定するということは、過去、現在から将来にかけて状況は滑らかに変化してきた、してゆくはずのものという仮設に基づいているという本質的な限界がある。それは、歴史上、常に新しいこと、今までとは違ったことが起きる、起こすことによって人間社会も産業社会もそれら全てを支える環境も変わってきたという事実を忘れてしまったかのように見える。
適切な例ではないかもしれないが、戦績を見ればボクシングではチャンピオンが挑戦者より必ず優位にある。データを重視すれば、常にチャンピオンが勝つはずだろう。ではタイトルマッチをしたら必ずチャンピオンが勝つのか。あり得ないだろう。そうでないことを日常生活のさまざまなことがらで実感していているにもかかわらず、データ重視をことさらながらに主張するのは、万が一データに基づいて判断したことが大きな失敗に至ったとしても、データに基づいての判断だからいう責任回避のための都合のいい逃げ口上があるからか?
データは重視しなければならないが、データを重視すれば間違いないと思っている訳でもないだろう。どのような分析を目的として、どのような情報をどのように収集し、どのようにデータ化し、どのような分析をし、それを人間の知識と知恵で判断する。その過程で最初と最後の“どのような分析を目的として”と“人間の知識と知恵で判断する”がデータ重視をどう使えるかの根幹になる。
2014/2/9